「戦後政治史」石川真澄、山口二郎著=戦後は、戦前と断絶しているわけではなく、強く繋がっているのだ

太平洋戦争の戦中、戦後について詳しく学んだ記憶がなく、漠然とですが、戦後は戦前の軍国主義が否定され、一夜にして民主主義の国に生まれ変わったような印象を持っていましたがとんでもありませんね。

考えて見れば当たり前で、人間自体変わることが不得意な上に、組織ときたら持続することが本質なわけですから、国を操る人間たちが一掃されなければ、国が変わるはずはありません。

どうやら戦争を仕掛けた者たちが戦後もこの国を操っているようです。 

戦後政治史 第三版 (岩波新書)

戦後政治史 第三版 (岩波新書)

 

アメリカとイギリス+中国(国民党政府)に無条件降伏のポツダム宣言をつきつけられ、日本政府は、8月9日と14日に御前会議を開いたそうです。そもそも御前会議などというものは、帝国憲法にさえその規定はなく超法規存在なわけですから、戦前の日本は立憲国家ではなかったということですし、話はそれますが、現在だって、憲法解釈を変えれば何でも出来るのであれば、民主主義国家どころか立憲国家でもないわけで、その意味でも戦前と同じということです。

8月9日の御前会議に先立つ最高戦争指導会議では、宣言受諾を主張したものが首相、外相、海相、徹底抗戦が陸相、参謀総長、軍令部総長と、三対三に分かれた。(2p)

敗戦を受け入れるのにあたって、重臣たちの関心事は唯一、「国体護持」であった。(略)政府は10日、ポツダム宣言の受諾を中立国を通じて連合国に打電するが、それには「宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」受諾すると書かれていた。(3p)

この時点で、連合国(アメリカ)はこれを受け入れたんでしょうか? そのあたり、この本ではよく分かりませんでしたが、全くの想像で言えば、この時代のアメリカに「天皇」あるいは「国体」というものが理解できていたとは思えませんし、まあ無条件降伏ですから勝てば官軍という面もあって、さほど気にかけることもなかったのでしょう。

8月30日にマッカーサーが厚木に降り立ちます。パイプをくわえている写真が思い出されます。

9月2日、降伏文書に署名

ポツダム宣言受諾が公表された玉音放送からおよそ半月後の9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上において調印された。日本側は、天皇および大日本帝国政府の命により、かつ、その名において重光葵外務大臣が、また大本営の命により、かつ、その名において梅津美治郎参謀総長が署名した。連合国側は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか、アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ、中華民国代表徐永昌、イギリス代表ブルース・フレーザー、ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ (en) 、オーストラリア代表トーマス・ブレイミー (en) 、カナダ代表ムーア・ゴスグローブ (en) 、フランス代表フィリップ・ルクレール、オランダ代表コンラート・ヘルフリッヒ (en) 、ニュージーランド代表レナード・イシット (en) が署名した。(ウィキペディア

9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪ねます。その後も含め計11回の会談を持ったそうです。

それらの会談の中で、天皇は戦後の日本を取り巻く世界情勢や日本の安全保障のあり方について意見を表明したことが、通訳の松井明が残したメモに記されている。特に天皇は冷戦対立における共産主義の脅威に言及し、アメリカに対して日本の安全保障に関する積極的関与を求めた。(9p)

これが本当なら、それまで「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった人たちは一体何だったんでしょう?

一説には、昭和天皇は共産主義を相当恐れており、ソ連の参戦による千島列島、樺太の喪失により自らの生命の危険を感じ無条件降伏に応じたとの指摘もあります。

ともあれ、GHQ の占領政策は、軍政を敷いたわけではなく日本政府を存続させたまま行いましたので、中にこんなこともあったようです。

10月3日、山崎巌内相はロイター通信の記者に対し、

「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する、また政府転覆を企む者の逮捕も続ける」「共産党員であるものは拘禁を続ける」「政府形体の変革とくに天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考へ、治安維持法によって逮捕される」と語った。(10p)

ただこれはGHQの「人権指令」によって治安維持法等の法律が廃止され、特高など思想警察や内務省警保局も廃止されました。

1946年1月4日、公職追放令

連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」の追放することとなった。

  • 戦争犯罪人
  • 陸海軍の職業軍人
  • 超国家主義団体等の有力分子
  • 大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
  • 海外の金融機関や開発組織の役員
  • 満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
  • その他の軍国主義者・超国家主義者(ウィキペディア

4月10日、戦後初の総選挙

むしろ驚かねばならないのは、これほど厳しい追放令が旧勢力に浴びせられたにもかかわらず、旧政友会、民政党など戦前の支配政党の系譜にある人々が多数当選したことのほうであった。
(略)
敗戦から八ヶ月たったこの時点では、政治が戦前から切れ目なく続いていると考えるわけにはいかないことが、多くの人々に意識されていたはずであった。(略)当時の占領軍は、共産党から「解放軍」と規定されたように、(略)日本人を軍国主義、封建主義から解き放ち、民主化することに熱心だった。
(略)
選挙は、それにもかかわらず国民の多くが、基本的には未だに旧勢力の後継者たちを支持していることを正確に告げていた。(32,33p)

戦争が一部の好戦的な人たちだけで始められたわけではないということでしょう。現在も同じだと思います。仮に今中国と尖閣か何かで交戦状態になれば、多くの人がサッカーの応援のように「ニッポン!ニッポン!」と叫ぶでしょう。 

5月22日、吉田第一次内閣、新憲法の審議過程で、

また、戦争放棄について吉田首相は6月25日、「近年の戦争は多く自衛権の名において戦われた」ことを指摘し、第九条は「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁した。(34p)

1947年4月25日、総選挙、社会党片山内閣

1948年2月10日、総辞職

この事件が(社会党の党内抗争) 総辞職の原因であったとする常識的見方に対しては、(略)片山は、(略)当時マッカーサーとの私的な会談で再軍備を示唆され、それをきらって辞めたのであって(略)(41p)

3月10日、芦田内閣

4月、昭電疑獄、GHQ内に幕僚部民政局(GS )と参謀第二部(G2)との対立?

10月15日、第二次吉田内閣

12月18日、経済安定九原則「日本経済の安定と復興を目的とする九原則」発表、ドッジ(デトロイト銀行頭取)が占領軍総司令官顧問として来日

1949年1月23日、総選挙、高級官僚出身議員多数当選する

2月16日、吉田第三次内閣

今日、米国の外交文書などによって、九原則こそは米国の冷戦政策の一環であったことが明らかとなっている。米国側には、日本を経済危機から立ち直らせることで、共産主義につけいる隙を与えない、(略)という動機があった。
(略)
ただ、老練な外交官であった吉田と、その考え方に忠実な池田、さらにその池田の有能な秘書官であった宮沢喜一らは、ドッジの登場のなかに米本国政府と占領軍当局との不協和音を感じ取り、本国とじかに接触することも含めて両者の摩擦を利用し、日本政府の立場、とくに講和条約についての立場を有利にすることを考えるようになる。(52,53p)

単独講和か全面講和か論争

実は同じころ、五月の二日か三日、渡米してドッジと経済再建について会談していいた池田、宮沢らは、「講和後の米軍の日本駐留を日本側から申し出てもいい」という吉田の言葉を極秘で伝えていた。(54p)

6月25日、朝鮮戦争勃発

在日米軍が朝鮮に派遣され、手薄になった国内警備を補うためという理由で、マッカーサーは(略)七月八日、吉田首相への書簡という形で、七万五〇〇〇人の国家警察予備隊の創設と海上保安庁の八〇〇〇人増員を命令した。(55p)

9月1日、政府機関職員のレッド・パージを閣議決定、約1,200人を追放

1950年10月13日、旧日本帝国の指導者10,090人に対する追放解除 

1951年6月20日、2,958人追放解除

8月6日、13,904人追放解除

9月8日、サンフランシスコ平和条約締結

1951年10月1日、総選挙

この選挙が、戦後の「保革」対立時代では最も多くの保守支持者の足を投票所に運ばせたということである。(略)保守党全体の絶対得票率は五〇%を超えた。これに対して(略)「革新」は二〇%を切っていた。(63p) 

やっぱり、戦後の日本には朝鮮戦争が決定的な意味を持っていますね。

ということで、今知りたいことは戦後数年の日本ですので、「戦後政治史」はここまでです。