川上未映子著『すべて真夜中の恋人たち』感想・レビュー・書評・ネタバレ

川上未映子さんの『すべて真夜中の恋人たち』が全米批評家協会賞の最終候補に選ばれたとのニュースを目にし、早速読んでみました。

川上さんの著作は『へヴン』と『乳と卵』を読んでいますが、もう6年前です。その後は木崎みつ子さんの『コンジュジ』が2020年のすばる文学賞を受賞したときに、川上さんが選者でありながらハイテンションで大絶賛していることにびっくりしたくらいです。

全米批評家協会賞

そもそも全米批評家協会賞という存在を知りませんでした。

全米批評家協会(National Book Critics Circle)から、毎年優れた英語作品に対し、小説(Fiction)、ノンフィクション(General Non-Fiction)、伝記・自叙伝(Biography and Autobiograhy)・詩(Poetry)・批評(Criticism)の5つの部門ごとに表彰が行なわれる。

ウィキペディア

という1976年から始まった賞のようです。上のリンク先には第1回からの受賞者一覧があるのですが、あまり翻訳ものを読みませんので、なんとなく聞き覚えがあるようなないような(笑)名前がある程度です。

受賞できるといいですね。発表は3月23日とのことです。

34歳冬子の深い孤独

最近は途中で挫折する小説が増えてきており、この『すべて真夜中の恋人たち』も、プロローグ的な1ページ目でいやーな予感がしたんですがとんでもなかったです。読み進みましたら次第に引き込まれ、読む間をおいても集中力が途切れず読み切ることができました。

34歳の女性の深い孤独の話です。

どんな女性かと言いいますと、小説の中に自分自身について語っているところがあります。唯一仕事上の関係でつきあいのあるから「あなたの、なにか聞かせてよ」と言われた時の記述です。

そう言われても、わたしは人に聞かせるような自分の話なんて何もひとつも思いつけなかった。名前は入江冬子で、仕事はフリーランスの校閲をしていて、三十四歳。十二月、この冬が来たら三十五歳になる。独り暮らし。ずっと同じアパートに住んでる。生まれたのは長野。長野の田舎のほう。谷のほう。一年に一度だけ、誕生日の真夜中に、散歩に出ることが楽しみ。でもそんな楽しみなんてきっと誰にも理解されないだろうし、誰かに話したこともない。ふだん話をするような友達もいない。それだけ。自分について話せるのはそれしかなかった。

(57p)

という人物の一人称記述の小説ですので実際に読まないとその孤独を感じることは難しいんですが、いくつかキーとなるものがあります。

校閲という仕事

校正というのは誤字脱字を見つける作業ですので一般的な仕事でも行われるものですが、校閲というのは

誤記はもちろん、表記の揺れ、事実関係の誤り、差別表現や不快表現などの不適切表現の有無まで、幅広くチェックし訂正していく仕事です。また、同じコンテンツ内で論理構成や内容に矛盾が起きていないかも確認します。

図書印刷

という、文章の内容の間違いや問題点を探していく仕事とのことです。

冬子は自分の仕事を「その文章にのめり込まないように」「感情を動かさないように」読まなくてはいけない仕事で、「ひとりきりの作業だから、そういうのが寂しくないというか、気にならない」人が向いていると語っています。また、自分は「感情が…その、なんというのか、感性というのかな、そういうのも豊か」ではないのですぐに仕事に慣れたとも語ります。

真夜中の散歩

25歳の誕生日の夜午後11時を過ぎた頃にふと真夜中を歩いてみようと思ったと語り始めます。

なぜそんなことを思いついたのか、わからないのだけれど、これまでとおなじように何も起こらなかった誕生日が終わろうとするのをぼんやりと眺めているうちに、とつぜん外へでて歩いてみようと思ったのだ。ケーキを買ってきて食べたり、誰かと話したり、ほかに何かすることがあってもよさそうなものだったけれど、ひとりでできることといえばわたしにはそれしか思いつかなかったのだ。

(35p)

そして、「均質にぴんとはりつめた」12月の空気の中を歩き始めた冬子は、見慣れたどこかの玄関先の枯れた鉢植えや錆びついた自転車のかごに捨てられた空き缶やペットボトルに自分だけにわかる密やかな意味が隠されているように思い、

そんなひとつひとつを丁寧に目に映しながらわたしは歩き、みつめるものの数がふえるたびに、胸のあたりで小さな音が鳴るようだった。夜の光だけが、わたしの誕生日をひそかに祝ってくれているような、そんな気がしたのだ。

と、冬子はそれから毎年誕生日には真夜中の散歩に出かけるようになります。ただし、記述としてはここ以外には真夜中の散歩のシーンはありません。

真夜中の光

おそらく「真夜中」とは孤独の象徴的な表現なんでしょう。そして、後半になりますとそこに「光」というものが加わってきます。ただ、一般的に光の持つ希望的なイメージではないようです。むしろ逆で光は消えていくものというイメージで描かれます。

冬子は毎日お酒を飲むようになります。日に日に量も増えていき、酔っ払った状態で外に出るようになります。冬子はたまたま見た文化教室の案内に誘われるように文化教室に向かいます。しかし、酔っ払っていますので椅子に座ったまま眠ってしまい、バッグを盗まれます。男性が千円を貸してくれます。それが三束さんとの出会いです。

後日、お金を返すために喫茶店で会うことになります。三束さんは、自分は高校で物理を教えていると言います。その夜、ふたりで駅まで歩きながら、

耳をすませばきこえてくるくらいの冷たさのなかで、乾いているけれどしかしとくべつなものだけでどこまでも潤んでいる茎のなかで、光を数えて歩くあの真夜中のことを思いだしていた。もう少し時間がたてば夏のいちばん熱いところがきて、終わって、秋がやってきて、それが去ってしまうと、冬になる。そうしたらまた、あの真夜中がやってくるのだ。そんなことを夜道をゆく胸のなかに巡らせながら隣をふとみると、三束さんの白いポロシャツの肩から背中にかけて、うっすらと白く発光しているように見えた。
それはまるで冬の匂いのような光かただった。

(120p)

この三束さんへの思いが小説の2/3の軸となっていきます。ですので恋愛小説の趣きもあります。

三束さんが光の話をしてくれます。物が色を持つのはその物がその色を反射しているからでそれ以外の光は吸収されてしまっているのだと話してくれます。冬子が興味を持つのは、光が吸収されて消えてしまうという点です。三束さんが、夜電気をつけると明るくなり、消すと暗くなることを話しますと、冬子は、その時の光はどこに言ってしまうのと質問します。三束さんは、吸収されてしまう、反射するものがあっても最後は消えてしまうと話してくれます。

「最後まで残る光はないんですか」
「そうですね」
「ぜんぶ、消えるんですか」
そのまま何となく、わたしたちは黙りこんでしまった。

(221p)

この三束さんには実在感がありません。冬子の見る脳内存在にもみえます。一人称記述であることがかなり厳密に守られており、冬子の見た目以上の存在にはなりません。かなりの回数同じように同じ喫茶店で話をするだけで、後に名前で呼びあうことにはなりますが、三束さんが光の話をする、ショパンの話をする、それに対して冬子が生徒のように質問するといった会話以上にはなりません。

しかし、冬子の三束さんへの思いは確実に強くなっていきます。

人生の登場人物じゃない

冬子がどんな人物かを示すために4人の人物が登場します。

すでに書いた校閲の仕事のつながりである、幾度か電話をしてくる場面がありますが、冬子は「そうなの」とか「はい」などと答えるだけでほとんど自分から話を持ちかけることはありません。

高校時代の話が一節挿入されています。冬子は子どもの頃から目立たない子であり、一般的な言葉で言えば主体性がなくただぼんやりと生きているように見える人物です。高校時代、同じようにあまり目立たない男の子水野くんにレイプされます。

ある日、水野くんの家に誘われていきますと、家族は皆出掛けているようです。水野くんはいきなり冬子の隣りに座り、肩に手を回し、キスをし、冬子が幾度もいやと言っているにもかかわらず、押し倒し、レイプします。

明らかにレイプなんですが、この小説のなかではそのことよりもその後のやり取りにポイントが置かれています。

水野くんは小さな声でごめんと言います。それに対して冬子が「それで、さっきのことは、…その話でいうと、どっちのことになるの」と尋ねます。レイプする前、水野くんは、自分はここが嫌だから東京へ行く、自分で人生を選ぶんだと語っていたのです。つまり、冬子は、嫌だと言っているのにレイプしたことも自分で選んだことなのと聞いたわけです。水野くんはその意味が理解できなく、逆にキレて、

「君をみているとね、ほんとうにいらいらするんだよ」
「自分の考えも、自分の言葉も持たないで、ぼんやりして生きている。学校でも電話でも、何を考えているのかわからない。まあ、何も考えていないんだろうね。ただぼうっとしているんだ。僕は君をみてると、ほんとうにいらいらするんだよ」

(190p)

と言います。

この高校時代の一節は、「わたしが初めてセックスをしたのは、高校三年のときだった」で始まり、最後は「わたしはあれから、一度もセックスをしたことがない」で終わります。

著者の意識がどこにあるのかがよくわからない記述ではあります。

とにかく、他の二人は、まず冬子がと知り合うきっかけをつくった元同僚での悪口を喋りまくります。もうひとりは高校時代に唯一親しくなった人物で、15年ぶりに会い、ひとしきり思い出話や現在夫婦関係が冷え切って自分も夫も浮気をしていると話します。どちらに対しても冬子は「そうなんですか」とか「そうなの」とかしか答えません。話すことがないということです。高校時代の知り合いは別れ際に、こんな話を出来るのは「入江くんがもうわたしの人生の登場人物じゃないからなんだよ」と言って去っていきます。

冬子は誰からも自分の人生の登場人物と思われていないということです。

冬子の孤独の正体

冬子の孤独の正体はなんだろうと考えてみてもなかなか難しく、ある意味冬子は孤独を許容できる人物にもみえます。冬子は一人ぼっちでほとんど外に出ませんが引きこもりというわけではありませんし、コミュニケーションを拒絶しているわけでもありません。逆に何でも聞いてくれますので愚痴や「自分の人生の登場人物」には話せないことも話せる相手として、ある意味聞き上手ともいえます。

ただ、ある時からお酒を飲むようになるのは「それだけで、わたしはいつものわたしではなくなることができるようになった」ということですから、本人の意識としては人と会うことが苦手、もっと言えばつらいと考えているということでしょう。

三束さんの存在が「真夜中の光」の象徴としてイメージされているのかも知れません。真夜中に発光するものはいずれ消えるでしょうし、その光も吸収され、反射し、やがて消えていきます。

三束さんへの思いは恋なのか?

三束さんの名前を日に何度も検索するようになり、三束さんから借りた本を読み、三束さんから借りたショパンを聞き、三束さんの夢を見、三束さんと会う日を待ちわびるようになります。そして、高校時代の同級生と会った夜、夜の街を歩きながら、その時冬子は孤独を感じます。

ひとりきりなんだと、わたしは思った。
もうずいぶん長いあいだ、わたしはいつもひとりきりだったのだから、これ以上はひとりきりになんてなれないことを知っているつもりでいたのに、わたしはそこで、ほんとうにひとりきりだった。こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなに無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはここにはただのひとつもなかった。わたしを呼び止めるものはただのひとつもなかった。過去にも未来にも、それはどこにも存在しないのだった。

(262p)

そして、約束もないのにいつもの喫茶店の前で、いつしか降り始めた雨にずぶ濡れになりながら冬子は立ちすくむのです。

「冬子さん」三束さんが声をかけます。思いもしない出会いでしたが、いつものようにいつもの席で向かい合い、いつものように話をし、しかしその日冬子はすくっと立ち上がり喫茶店を後にします。そして、

角をまがるところまで来たとき、目を閉じて、息を吐いた。そして祈るような気持ちで五秒をかぞえ、ゆっくりとふりかえってみた。でもそこには誰の姿もなかった。

(269p)

その後冬子は一日の大半をベッドで過ごすようになります。そして三束さんのことが好きなのだと自覚します。何度もかかってくるからの電話にも出ることなく、三束さんと話す夢を見、三束さんと体を合わせる夢を見ます。長い長い時間が過ぎ、三束さんに電話をします。「もしもし」「もしもし」いつものありきたりの会話が続きます。そして、長い沈黙、

「三束さんは、ご結婚されていますか」
「三束さんは、わたしと寝たいと思ったことは、ありますか」

はい、と三束さんが言った。

(298p)

再び、三たび、いや、わからない程の長い沈黙の後、二週間後の三束さんの誕生日に会う約束をします。

あなたをみてると、いらいらするのよ

二週間後、冬子はからもらった高額なブランド物の下着をつけ、服を着て、香水をつけて、ハイヒールの靴を履いて、美容院で髪を切り、化粧をしてもらい、三束さんと会います。場所は冬子が予約(多分聖から聞いて…)したフレンチのレストランです。

いつものようにいつものような会話をし、そして、別れ際です。ふたりは見つめ合い、冬子が愛を告白します。

ここは会話ではなく冬子の一人称表現として3ページにわたる長い描写ですので引用しませんが、冬子は最後に

わたしの誕生日を、一緒に過ごしてくれませんか、とほとんど嗚咽まじりの声で言った。真夜中を、一緒に過ごして歩いてくれませんか。それからふたりで一緒に、あの曲を、一緒にきいてくれませんか。
私は泣きながら、三束さんにお願いした。

(322p)

三束さんは何度もうなずきます。

しかし、その日、三束さんは来ません。その後、三束さんから手紙が来て、そこには、高校の教師というのは嘘だった、心苦しかったと何度も何度も謝りの言葉が書かれており、もうお会いするつもりはありませんとしるされていたのです。

聖との関係はシスターフッドか…

三束さんとレストランで食事した夜、アパートに帰ると、外でが待っています。連絡のとれない冬子を心配して来たと言います。その時冬子はからもらった服でドレスアップしています。が冬子を詰り始めます。

「びっくりした?」「元気そうじゃない」「お酒飲んでるの?」「連絡くれてもよかったんじゃないの」「わたし何かむずかしいこと言ってる?」「なんでしないの?」そして、冬子が自分があげた服を着ていることに「誰に会ってたの?」「男の人?」と次第に激しい詰問口調となり、そして人格否定にまでおよび、そして、

「あなたをみてると、いらいらするのよ」

と言います。

3ページにわたる冬子の独白的記述が続き、膝を抱えてなく冬子に聖はごめんなさいと言い、

あなたは何も間違ったことを言っていない、わたしが悪いのと言って、(略)わたし意地悪になって、いつもこうなってしまうの、それでいつもだめにしてしまうの、何もかもがだめになるの、(略)と言って顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。わたしは、わかってる、わかってるからと言って肯いて泣き、聖は(略)でもわたしはあなたを友達だと思ってるの、と涙と鼻水がいっぱいに広がった顔を歪ませて声にならないような声で言った。わたしは肯いた。

(341p)

冬子37歳

冬子の37歳の誕生日、は妊娠7ヶ月になっています。聖は、男と別れ、自分ひとりで育てると言っています。

そんなふうにして春が過ぎ、夏がやってきて、一日は何度でも夜になり、朝を迎え、知らないうちに秋は深まり、やがてまた冬が巡ってきた。わたしはいつのまにか、誕生日の夜だけではなく、ほかのなんでもない夜でも、それから昼でも、朝でも、家を出て散歩するようになった。なんでもない光の中を、あの夜とおなじような気持ちで歩くようになっていた。朝や昼間のおおきな光の中をゆくときは今も世界のどこかにある真夜中を思い、そこを過ごす人たちのことを思った。わたしは三束さんのことを思いだして息を止め、ふたりで話したことを思いだし、とてもすきだったことを思いだし、ときどき泣き、また思いだし、それから、ゆっくりと忘れていった。

(348p)

という小説です。

溢れ出る気持ちを一気に絞り出して書かれたようなとことがあり、それを小説にはない言葉で説明することがとても難しく、予想以上に引用が多くなってしまいました。

この小説がどう翻訳されるのだろう…

この小説が英語に翻訳され、それが全米批評家協会賞の対象になることとはどういうことなんだろうと不思議になり、英文が引用されている書評からその英文を拾い原文がどう翻訳されているのかみてみました。

雨が降っているわけでもないのに濡れたようにふるえる信号機の赤。つらなる街灯。走り去ってゆく車のランプ。窓のあかり。帰ってきた人、あるいはこれからどこかへゆく人の手の中の携帯電話。真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には、光しかないのですか。

All the lights of the night. The red light at the intersection, trembling as if wet, even though it isn’t raining. Streetlight after streetlight. Taillights trailing off into the distance. The soft glow from the windows. Phones in the hands of people just arriving home, and people just about to go somewhere. Why is the night so beautiful? Why does it shine the way it does? Why is the night made up entirely of light? (p.7)

(5p)

青い信号、赤い信号が薄暮のなかでにじんでみえ、慣れない夕暮れの街には、誰かを待っている人、誰かに待たれている人、誰かと食事をする人、誰かとどこかへゆく人、そして誰かと帰っていく人たちであふれているように思え、わたしは彼らの胸や喉を明るく満たしているはずのもののことをぼんやりと想像して、わたしにはかかわりのないそれらを数えながら目をつむり、足を前へ進めていった。

As I passed below the haloes of the green and red traffic signals, I was taken by this strange view of the evening, the city streets full of people – people waiting, the people they were waiting for, people out to eat together, people going somewhere together, people heading home together. I allowed my thoughts to settle on the brightness filling their hearts and lungs, squinting as I walked along and counted all the players of this game that I would never play.

(131p)

隣のビルの看板や外壁や窓がうっすらとむこうにみえ、そのうえに、かすかに青味がかって浮かび上がっているわたしは、なんだかとても哀れにみえた。それは可哀想なのでもなく、みすぼらしいのでもなく、哀れという言葉がいちばんぴったりとしているそんな姿だった。

The image of myself that floated to the surface, tinged with blue against a backdrop of the signs, walls, and windows of the nearby buildings, looked absolutely miserable. Not sad, or tired, but the dictionary definition of a miserable person.

そこに映っているのはカーディガンに色あせたジーパンをはいた三十四歳のわたしだった。ひとりで、こんなに天気のいい日に街へでても、どうやって楽しめばいいのかもわからない、哀れな女の人だった。そして、みんなが無視するか受けとってもすぐに捨ててしまうようなものでぱんぱんに膨らんでいるバッグだけを大事そうに抱えていた。

What I saw in the reflection was myself, in a cardigan and faded jeans, at the age of thirty-four. Just a miserable woman, who couldn’t even enjoy herself on a gorgeous day like this, on her own in the city, desperately hugging a bag full to bursting with the kind of things that other people wave off or throw in the trash the first chance they get.

(68p)

わたしは目を閉じ、椅子にすわったまま、そのきらめきとしかいいようのない音の世界に身を委ねた。頭がゆれ、呼吸が深くなり、わたしの足は、光の板でできたそのはかない階段を、ひとつずつ、のぼっていくようだった。足のうらがついた瞬間に板はふわりと輝いて足を離すと粉々になって消え、それがまたつぎのあらたな階段に生まれ変わり、わたしの行く手をやさしく導いた。

In my chair, I surrendered myself to a world of sound that could only be described as sparkling. It made my head sway, and my breath grew deeper as my legs climbed up that evanescent staircase, each step a sheet of light. They would shimmer to life the second my sole made contact, then fizzle into stardust when I lifted my foot, only to be reborn as yet another step, gently showing me the way.

(228p)

一般的に翻訳がどうなされるのかわかりませんが、これはかなり意訳ですね。原文を読んでいて、これを英文にするのは難しいだろうなあと思いましたので、なるほどと納得ではあります。

評価の半分は翻訳家のものかも知れません。もちろん、それは原作に対する評価がどうこうということではありません。

サム・ベット(Sam Bett)さんとデビッド・ボイド(David Boyd)さんという男性2人です。