芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか

読書にも波がある。たまたま手に取った本でも、一度引き込まれると、その作家のものを全て読もうとしたりする。あいにく、村上春樹はそうはならなかった。が、しかし、この「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか」(市川真人)を読んで、あるいはそうなるかも知れない。実際、すでに図書館に数冊予約した。

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか (幻冬舎新書)

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか (幻冬舎新書)

  • 作者:市川真人
  • 発売日: 2016/09/30
  • メディア: Kindle版
 

と、この本について何か書こうと「記事を書く」を開いたところ、カテゴリに「本」がないことに気づいた。そう言えば、まだここ「はてな」に移していない、過去のブログにはそれなりにBOOKS関連の記事もあるのだが、ここふた月ほどで読んだ本は、これを含めわずか3冊だ。まずい。

本を読んでいないから「まずい」と感じるのは、もうすでに結構な年齢であることを示しているようだ。この本でも書籍離れが嘆かれている。まあそれはこの本の本論ではないのでおくとして、また今年も村上春樹はノーベル賞を期待されながら受賞できなかった。ここ何年か毎年候補と言われているようだが、なぜ村上春樹が候補になるのかは定かではない。

先にも書いたが、実は私、村上春樹を読んだことがない。多分。多分というのは、1冊何かを読んだ記憶はあるのだが、全く思い出せない。20年ほど前になるかと思うが、「ねじまき鳥」がなぜだったか世間で騒がれたことがあるが、その時でさえ手に取ることもなかった。それほどに、私にとって、村上春樹は興味が持てる作家ではなかったのだが、この本を読んで、それがなぜだか分かった(ような気にさせられた)。

著者の市川真人は、標題の問いに対する答えを、加藤典洋の「アメリカの影」から

ぼくは、ここで一つだけ簡単にいっておきたい。日本文壇(?)は、日本はいまアメリカなしにはやっていけないという思いをいちばん深いところに隠しているが、それを、アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している。

を引用し、候補作の「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」での村上春樹の立ち位置が、どうアメリカと向き合うかではなく、それを超えたというか、アメリカと同化した地平から書いているからと分析している。

つまり、上の引用の世界に自己存在性を規定している当時の文壇、あるいは当時の選考委員たちには、「限りなく透明に近いブルー」に、アメリカではないアイデンティティやアメリカへの屈辱は読み取れても、端からアメリカ的言語感で書かれ、自分たちと自己同一性の感じられない村上春樹の作品は、「翻訳小説の読み過ぎ」「バタ臭い」としか評価できなく、ある種拒否的反応を示したと説く。

さらに、敗戦で「父性」を失った日本は、「強いアメリカ」をそれに置き換えるか、あるいは「父性」を失った弱さを「恥ずかしく」思うか、そのいずれかによって、常に「父」を書くことで文学が成り立ってきたという。

ということで、なぜ私が村上龍を好み、村上春樹を好まなかったのか、納得がいくというわけだ。

それにしても、一連の考察は、実に明解で分かりやすい。ただ、それゆえに、やや引き気味になるのも、また事実で、他に、太宰の「走れメロス」や漱石の「坊っちゃん」を扱った部分などは、かなりイマドキ口調で進み、一冊の本としてもまとまりに欠けている。

基本的には、構造主義〜ポスト構造主義的文芸批評だとは思う。