伊勢崎賢治「武装解除 -紛争屋が見た世界」

この本を読み終えたところで偶然「SYNODOS」の記事を目にし、結構興味深かったので、下のリンクに先ほど書いたところです。

SYNODOS「伊勢崎賢治×伊藤剛」が面白い!一年前の記事がなぜ再掲載されているか分からないが… – @半径とことこ60分

ただ、興味深く感じたことの多くは伊藤剛さんの発言でしたが…。

伊勢崎賢治さんという方を初めて目にしたのは某テレビ番組ですが、イラクに関する発言ですごい存在感が感じられ、かなり印象に残っています。テレビのコメンテーターは概ね大学教授とか評論家とか、語っていることは尤もだがそうは言っても的な、現実に何かコミットできる感じのしない発言が多いのですが、この方はどこか違っていました。

で、機会があれば何か読んでみようと思っていたのに随分間があいてしまいました。

武装解除  -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

 

簡単な自分の生い立ちから、東チモール、シエラレオネ、そしてアフガニスタンでの DDR(武装解除・動員解除・社会復帰)に関わった経験を語り、最後に、執筆時点(2004年)での、日本の国際貢献や憲法、自衛隊など安全保障に関する自分自身の信条を語っています。

で、読んだ印象は、言っていることには説得力もあり賛同できるところも多いのですが、どこか危うさが感じられ、いわゆるプラグマティズムの持つ危険性みたいなものが同居している感じです。

ただ、ここに書かれていることはあくまでも10年前の考えですので、最新刊の「日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団自衛権入門」を読まないと現在の考えは分からないですね。10年という時間があるいは全く正反対の考えにしている可能性も否定できない、つまり、それだけプラグマティックな印象が強いということです。

日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門 (朝日新書)

日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門 (朝日新書)

 

それにしても紛争地域の最前線なんてものはこうした活動をされている方にしか語れないことですので、とても興味深く読めます。

特にアフガニスタンの武装解除については、日本がこうした役割までをも担っていたとは全く知らず、もっと調べてみようといういい契機になります。

伊勢崎さんは、東チモールやシエラレオネでのキャリアを買われ(多分)、2003年に外務省の依頼でアフガニスタンにおけるDDR班の特別顧問に就任したということです。

このあたり、正確には読んでいただいた方がいいのですが、2002年の東京アフガン復興会議で、アメリカが新国軍建設、ドイツが国家警察復興、イタリアが司法改革、イギリスが麻薬対策を担当することになり、決まっていなかった DDR に日本が手を挙げ、カブールの日本大使館内にその部署が設けられ、伊勢崎さんは外務大臣の特命(多分)として一年間の期限付で赴任したようです。

その後の経緯をここで説明しても誤解が生じるだけですのでやめますが、いずれにしても、アフガニスタンは部族社会とのことですので、武装解除、動員解除(DD)なんてことは至難の業だったようです。

結局、伊勢崎さんは当時立教大学の教授であったために一年契約となったようで、DDR の完了を待たず任をはずれています。この本はその段階で書かれていますが、ウィキによりますと2006年6月に旧国軍約6万名の武装解除が完了したとのことです。

で、第四章「介入の正義」として伊勢崎さんの本音(この方一貫して本音なんですが…)が語られます。

人道援助はもはや戦争利権の一つなのだ

「人道」を大義にイラク戦争を始めたアメリカを非難すると同時に、復興ニーズが大規模破壊によって生み出され、そこにビジネスチャンスの如く群がる NGO 、いやこの言い方は正確ではないですね。伊勢崎さんには、人道主義は政治を超越した人間性に関わるベーシックなものとの考え方から政治的発言をしない事業実施型NGO への苛立ちがあるようです。復興の最前線で活動してきたゆえの何かがあるのかも知れませんがそのあたりはよく分かりません。ただ、人道援助もビジネスという面があることはよく分かります。

民主主義は強者の宗教

民主主義を否定しているわけではなく、国力の勝る国が劣る国へ市場経済をベースとした民主主義を啓蒙しに出掛けていくこと、その究極がイラク戦争における武力を背景とした「大義」のロジックだと言います。ここにも苛立ちが感じられます。

「貧困をなくせば紛争がなくなる」の欺瞞

貧困の撲滅を目指した国際開発援助という概念ができてもう半世紀が経つ。その間、そして今の今でも、援助関係者の不断の努力が継続し、それで立派に飯を食う「業界」も確立し、それはNGOなど民間の善意から、大きな金が動く公的支援まで、揺るぎない一つの専門分野になった。しかし、その不断の努力が報われている兆候はいっこうに現れず、弱いものはさらに弱く、そして弱いもののところに地域紛争が集中するという傾向がさらに強くなっている。

これだけではちょっと分かり難いのですが、つまり、貧困対策によって紛争がなくなるわけではなく、その二つは別次元の話であり、これまで日本はこの二つを取引してやり過ごしてきた。「金は出すが人は出さない」という論理ですね。で、それはそれでいいのだが、現在そのことを逆に利用して「金は出すが血は流さない」と国際的に非難されているから自衛隊の海外派遣を推し進めようとする勢力が台頭してきた。

これはまずいと伊勢崎さんは言っています。

軍隊というプロの殺人集団が、紛争の原因を絶つために海外に出掛けていき、紛争当事者間のポリティックスに巻き込まれない、そして非戦闘員を殺さないためには、その軍事行動に高度な政治判断が必要である。

政治判断は文民統制が原則であり、軍隊が政治判断をすることは許されない。それは「外交」の仕事であり、高度な情報収集能力や判断力が必要だが、現在の日本にはそれがない。たとえば、在外公館の館員の地方出張の決裁権が東京にあり、決済を判断するためにはその公館からの情報に頼らざるをえない、こんな体制で現場で軍隊を統制できるわけがない、と言っています。

もともと

国連軍事監視団の派遣は、国連平和維持軍一個中隊以上の外交的インパクトがあるのだ。「顔の見える国際貢献」に飢える日本は、(略)軍事監視のような平和のための信頼醸成の分野に自衛隊活用の活路を見いだすべきではないだろうか。

と考え、日本国憲法第九条における神学論争をやめ、

日本の軍隊が一般市民を殺すことなく平和利用されるために、日本自身、もしくは同盟国の経済的利益のための海外派兵の道を閉ざす(ママ、開くためのという意味だと思う)憲法論議の必要性

を説いてきた伊勢崎さんですが、今(2004年)は、

現在の政治状況、日本の外交能力、大本営化したジャーナリズムをはじめ日本全体としての「軍の平和利用能力」を観た場合、憲法特に第九条には、愚かな政治判断へのブレーキの機能を期待するしかないのではないか。
現在の日本国憲法の前文と第九条は、一句一文たりとも変えてはならない。

と「護憲」の立場に立つと締めくくっています。 

要は、国際紛争の最前線を見てきた者としては、本当は国連軍事監視団として自衛隊を海外派遣し積極的に国際貢献すべきと考えるが、現在の日本の政治力には海外での自衛隊の行動をコントロールする力はない、ならば、第九条を盾に海外派遣に断固反対する、ということです。

現場での統率力や決断力もありそうでとても優秀な方のようですが、どこか危うい感じがします。そうですね…、マクロな視点が見えない感じとでも言いますか、判断の基準がプラグマティックな印象が強いと言いますか…。

「平和」より「戦争」の方がセクシー、との発言が象徴的です。