沖縄と共闘できないと、安保法制反对は60年、70年の二の舞い、三の舞いになるのではないか

たとえ国会がデモ隊で包囲されようとも、安倍くんは安保法制の採決を強行するでしょう。あるいは、5歳の時、おじいさんと共に味わったであろう不安感や高揚感が入り混じった感情がよみがえり、武者震いしているのかもしれません。

いずれにしても、到底有り得そうもないことですが、自民党内に反対勢力が現れるか、池田大作が公明党にカツを入れるでもしない限り、この安保関連法案は成立するでしょう。

で、考えるに、私達は、またも日本の将来を自らのこととして考えるチャンスを失ったのではないでしょうか。

日米安全保障条約は憲法の上位にあるのか?

この安保関連法案は間違いなく憲法違反です。

ただ、どうやら物事はそれとは違うところで判断されているようです。考えてみれば、戦後の日本の政策は、憲法よりも日米安全保障条約を軸にまわってきた節があります。早い話、日本の繁栄は日米安保があったからと言う人はいても、憲法のおかげだと言う人はいません。外交がアメリカ追従であることはもちろんのこと、国内政策だって、アメリカの利害に関係することは逆らうことはできません。

60年、70年安保闘争は、日米安保そのものを問う直接的な機会だったのですが、条約締結後は急速に収束してしまい、今や日米安保は空気のような存在になっています。

60年に締結された新安保条約は、期限を10年とし、その後1年毎に更新、と言いますか、1年の予告期間をもって破棄できるとなっています。この自動延長がくせもので、70年以降、日米安保を見直すなどという空気はすっかり消え去り、あって当たり前、安倍政権にとっては憲法よりも上位に鎮座しているようです。

しかし、現在、日本が抱える矛盾の多くは、この日米安保条約があるが故と言っても過言ではありません。

集団的自衛権は、日本が独立国家になってから考えよう

安保法制における集団的自衛権の問題もそうです。安倍くんがよく持ち出す「友達理論」、つまりアメリカは日本を助けてくれるのに、日本はアメリカを助けなくていいのかという考えは、「日米安保の片務性」のことを言っているわけで、安倍政権の政策は、憲法よりも日米安保(日米同盟)が優先するということです。

私は集団的自衛権を否定するものではありませんので、「友達理論」を一概に間違っているとは思いませんが、現在の日米安保のもとでの集団的自衛権容認は、自衛隊をアメリカ軍の一部隊として位置づけることになります。

日米安保の弊害の一つは、アメリカの目を通してしか世界が見えなくなっていることです。集団的自衛権の議論は、独立国家とも思えない現在の日米関係の元ではなく、健全な多国間関係を築いた後に議論すべきことだと思います。

我々は沖縄の犠牲の上に立っている

そして何よりも大きな問題が沖縄の置かれている現状をどうすればいいかということです。 

今の日本が沖縄の犠牲の上に成り立っていることを否定する人はいないでしょう。

でも、正直どうすればいいのか分かりません。どんな方法があるのかも分かりません。分からないと逃げるわけではありませんが、少なくとも、政治はこの問題に何らかの提案を出すべきでしょう。

安倍政権はこの記事のように沖縄に犠牲になれと突き放しています。アメリカに対する集団的自衛権を容認し、対等の関係にするというのなら、少なくとも沖縄と同じ位置に立ってアメリカに対するべきでしょう。

そもそも、日本政府に米軍の展開に対して口を挟む余地はあるのでしょうか。日米地位協定には、「両国の合意」がうたわれてはいますが、とてもその気概を持って交渉にあたろうとしているようには見えません。

戦争反対だけではなく、日米安保破棄への道筋を見つけなければ何も変わらない

日米安保条約を破棄(改定を含む)して、日本が独立国家となる道はないのでしょうか?

70年以降の日米安保条約がどう変化しているのかから調べるとしよう。