加藤典洋著『敗戦後論』=戦争の加害者ではなく、犠牲者としての意識をうえつけられる戦後70年だったと思い知る。

今から20年前、ちょうど戦後50年という節目に発表された「敗戦後論」に、その後の批判に答えた「戦後後論」「語り口の問題」を含めた本です。戦後70年ということもあるのか、昨年再刊されているようです。

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

 

発表当時大論争になったとのことですが、この本で問題にされている「日本の戦後」は、20年経った今でも何ら変わることなく問題であり続け、未だに我々は「戦後」から抜け出られていません。

その意味で言えば、「論争」それ自体が現実と乖離したところで行われ、ほとんど現実に影響をおよぼすこともなかったのではないかとも言えます。

いずれにしても、安保法制や安倍政権が政治日程にあげようとしている「改憲」のことを考えれば、ここで問題にされていることは、20年前よりも今のほうがより現実感を伴っているのではないかとさえ言えます。

加藤氏自身が、昨年末に『戦後入門』という形で現在の考えを表明されたのもそうした意味があるのでしょう。

戦後入門 (ちくま新書)

戦後入門 (ちくま新書)

 

で、『敗戦後論』ですが、この本から理解できる加藤氏の問題意識は、白井聡著『永続敗戦論』にも通じる、いや逆ですね、白井氏の論が加藤氏に通じると言ったほうが正確ですが、いわゆる戦後処理が、外交的にも日本人の内面的にもあらゆる面でうまくできていないことへのいらだちがあり、それを何とかしたいということだと思います。

加藤氏は、戦後処理がうまくできない理由を「ねじれ」という言葉で説明しようとしている(ような)のですが、この「ねじれ」の意味合いが分かるようで分かりにくいです。文面では、「義のない戦争であった」「他国への侵略の謝罪ができていない」などの言葉で語られていますが、私の理解では、敗者なのに負けを認識できていない感覚を指しているのではないかと思います。

その感覚は戦後一貫して日本を覆っていますが、それが義のない戦争で無意味な死者となった戦死者をうまく追悼できない、つまり「靖国」の問題、そして侵略国に対して真っ当な謝罪ができない、たとえば慰安婦問題にみられるように謝罪はおろか正当化しようとする勢力まで生まれるという形になって現れているということでしょう。

なぜこうした考えが、左派の論者と言われる高橋哲哉氏(など)から批判を浴びるのかちょっと不思議な感じもしますが、加藤氏は、この「ねじれ」の解消の方法として、自国の(無意味な)死者300万人を弔うことを通して、(敗戦国日本の)主体を立ち上げ、それにより2000万人のアジア(非侵略国)の犠牲者を追悼すべきと主張していますので、これがネオナショナリズムと批判されたようです。

確かに、自国の死者を弔うことを通してアジアの犠牲者を追悼と言われても、具体的には一体何をどうしろと言っているのかよく分かりませんので、単純な言い方をすれば、アジアの犠牲者への謝罪追悼が先だろという議論になってしまうのでしょう。

まあこの本の分かりにくさは、そうした具体的なことがよく分からないだけではなく、全く難解ではないのに、すらすらと読んでいくと最後には論点がぼけているという感じですので、書けば書くほどさらに突っ込みどころを与えるみたいなものです。

ただ、ひとつ非常に分かりやすい加藤氏の「怒り」を感じるところがあります。そもそもこの論文を書いたのは、1991年の湾岸戦争時に「文学者の討論集会」名で発表された声明文に疑問を感じたとあるのですが、私の受けた印象では、加藤氏はこの声明文に相当怒っています。

「文学者の討論集会」の声明文というのは、下のリンクに引用されています。

資料庫・高和政「湾岸戦争後の「文学者」 ─〈新たな反戦〉の行方─」(『現代思想』2003年6月号掲載)

声明1

私は、日本国家が戦争に加担することに反対します。

声明2

戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。

われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。

んー、たしかに一読だけでも上から目線で偉そうな印象の文章ですね。突っ込みどころも多そうです。

対して加藤氏は、

  1. 憲法の「戦争の放棄」条項が強制的に押し付けられた事実を明言せず、あたかも自力で策定、保持したかのように読み取れるように作文している。
  2. あたかも日本人が「最終戦争」として戦ったという虚偽のレトリックを弄している。
  3. 「アジア諸国への加害の反省にもとづいている」と述べているが、事実に反する。たとえば、朝鮮・韓国人の慰安婦として動員された女性への謝罪、賠償ひとつすませていない。
  4. 「二度の世界戦争を経た西洋人の祈念が込められていると信じる」などとは、タチの悪い「西洋人」向けレトリックだ。

と批判して、

戦後、五十年をへて、わたし達の自己欺瞞は、ここまで深い。ここにあるのは個々人の内部における歴史感覚の不在だが、その事態が五十年をへて、ここでは、本来はない歴史主体の、外に向けての捏造が生み出されているのである。

とまで怒っています。

結局、加藤氏の問題意識は、憲法の九条に対する認識のされ方に気持ち悪さを感じている、つまり、押し付けられたものであるにもかかわらず、その価値観を否定できない、と自分で感じるようになった、その居心地の悪さにあるように思います。

そして、そのこと自体が上の声明文のようにきちんと直視されていないと怒り、その対象が単純な護憲派に向くがゆえに、左派からの批判も激烈だったんだろうと思います。

ただ、加藤氏は、直視していない点においては「護憲派」も「改憲派」も同じで裏表の関係にあると言っています。つまり、護憲派は自ら高らかに謳う「平和憲法」を自らの手で勝ち得たものではないことを隠蔽する体質を持っており、改憲派は押し付け憲法論で改憲を目指すがアメリカの怒りを恐れ自立する日本を主張できないでいるということです。

それはあたかも、護憲派は外向きの顔、改憲派は内向きの顔と人格が分裂したような状態であり、その原因は、ひとえに敗戦国日本の主体性の無さにあると言っている(と私は読み取った)わけです。

この人格分裂状態は、実は、加藤氏の言う概念的な意味合いだけではなく、われわれ日本人個々の中でも起きていることではないかと私は思います。

つまりそれは、日本人の多くが「戦争はいけないことだ」と思いつつも、「一国平和主義ではこの国を守れない」との主張に抗することができないことに現れているわけで、抗しきれないのは、憲法九条自体が自ら勝ち取ったものでないという内的不安定を抱えているからです。

また慰安婦問題など戦争犯罪にしても、メディア、世論、そして私自身をも含めた日本全体を覆う、後ろめたさを伴うがゆえ(と思いますが)の頬被り状態となって現れています。

昨日も、天皇陛下がフィリピンを訪れられているニュースの中で、フィリピン人110万の死者の話やキリノ大統領の日本人戦犯105人への恩赦の話などが報じられていましたが、正直そんなこと知りませんでした。知らないかといって許されないというのが敗者の主体ということでしょう。

日本(人)は、あの戦争で一体何をしてきたのか?

戦後70年、仮に当時20歳とすれば、現在90歳、そう多くの方が存命ではないと思いますが、具体的に戦地で何をしてきたかを語って残していって欲しいものだと思います。

話が飛びましたが、冒頭にも書きましたように、加藤典洋さんは現在の考えを『戦後入門』にまとめていらっしゃいますので、読み終えましたらまた何か書こうかと思います。

Youtube に記者クラブでの会見の動画がありました。


文芸評論家 加藤典洋さん 「戦後70年 語る・問う」(40) 2015.12.9