東山彰良著『僕が殺した人と僕を殺した人』(ネタバレ)面白いのですが、書ききれていない印象です

面白かったのですが、直木賞受賞作「」と同じように集中するところまでいくには結構時間(ページ数)がかかります。 

僕が殺した人と僕を殺した人

僕が殺した人と僕を殺した人

 

この作家の特徴ですかね。

入り込めば後はすんなりなんですが、どうしても出だしで躓きそうになります。全体の構成は大枠から核心へのスタイルなんですが、その大枠の部分でなかなか先が見えてこない感じです。

ふたつの物語が同時に語られていきます。ひとつは1984年の台北、ユン、アガン、ジェイ3人の13歳の夏の日々が「ぼく」ユンの一人称で語られていきます。

そしてもうひとつは、2015年、30年後のアメリカ・デトロイト、連続殺人犯サックマンが逮捕され、その弁護をしようという「わたし」の一人称で語られます。

以下、ネタバレします。

前半は、「ぼく」ユンが語る台北での青春の日々がほとんどで、30年後の話は1,2シーン程度でほとんど出てきません。

世に出ている小説に読者が文句を言っても始まりませんが(笑)、この手法が何だか中途半端で入り込めない一因にもなっているように思います。30年後の話にもっと厚みをもたせて、最初から分量を多くすればいいような気がしますが、そうしますと、「わたし」が誰だかバレちゃいますかね?

13歳のユンである「ぼく」が語ります。すでにユンの兄モウが何らかの理由で亡くなっており、そのショックで母親が精神障害となり、弁護士の父は「ぼく」ユンをアガンの家に預けて、アメリカに移住してしまいます。

設定としてはかなり無理があるように思いますが、とにかくユンにとっては相当ショックでしょう。何年か後(いつだったか忘れた)には戻ってくるのですが、物語の展開としては、少年期のユンに精神的影響を与えたという程度でそれ以上突っ込むような関わりはありません。

アガンの家は牛肉麺屋を夫婦でやっており、取り仕切っているのは母親で、父親は人はいいのですがのんびり屋です。ダーダーという弟がいます。

言い合いはしても夫婦仲良く店をやっているように描かれているのですが、ある日突然母親が男と逃げてしまい、結局離婚、アガン兄弟は母親とその男と暮らすことになります。

ジェイの私生活そのものはあまり語られませんが、母親は再婚で、ジェイは継父から DVを受けています。これが物語のキーとなるのですが、そのことがはっきりするまで三分の一か半分くらいのページ数を要します。

前半の多くはこうした3人の日々の生活が語られていくのですが、どうしてもユンの一人称記述ですので、それぞれの人物像が曖昧なままかなりのページを要することになっています。これが入り込みにくい大きな理由で、分厚い本を前にして、一体この物語はどこへ向かっているのかがはっきりしないのはかなりつらいですね。

とは言っても、「」でも書きましたが、どうやら東山彰良さんの意識は、基本「青春物語」にあるようで、この前半のユン、アガン、ジェイ3人の13歳の日々こそが書きたいことなのかも知れません。

で、物語のキーと書きましたジェイの継父の話ですが、3人は喧嘩や仲違いをしながらも熱い友情で結ばれており、ある日暴行を受けたジェイを見たユンが継父を殺そうと、毒蛇を使った計画を持ちかけます。

で、そのことの顛末は後半の「わたし」とサックマンのやり取りの中で明かされていくことになります。

当然、「わたし」もサックマンも3人のうちの誰かだろうと思いながら読んでいくわけですので、このあたりはややミステリーぽさを漂わせています。「ぼく」=「わたし」が自然な流れだとしますと、サックマンはジェイかアガンかなどと考えることになります。

その点の結論を言いますと、「わたし」はユンではなくジェイであり、サックマンこそがユンです。

異なった人物が同時に「ぼく」と「わたし」という一人称で語っていくことを利用しているわけですが、他にも、ユンの父親を弁護士として「わたし」との関連を連想させたり、ジェイを不良っぽいキャラにし、また DVを受けていたとしたり、ミステリーを意識したプロット作りになっています。

ただ、ミステリーという意味ではそのことが本筋ではなく、なぜユンがサックマンという殺人鬼、確か7人くらいだったと思いますが、それも少年ばかりをわけもなく殺すという非道なことをする人間になったかということです。

サックマン(ユン)は弁護士として接見したジェイを覚えていません。

サックマンは、時にジェイに襲いかかるなど凶暴さを見せながらも、幾度かの接見によって失われた記憶を取り戻していきます。 

ジェイの継父を毒蛇で殺そうとしたあの夏、計画は着実に進んでいたのですが、蛇の隠し場所としていた閉店した牛肉麺屋に、台北を離れていたアガンの父親がたまたま戻ってきて、誤って蛇に噛まれて亡くなってしまうのです。

そもそもの計画にも、青春時代にありがちな抑制の効かない(友情の)勢いと罪悪感の間で揺れ動く3人でしたが、それが事故だとはいえ、現実に人の死、それも父の死を前にして、耐えられなくなったアガンが、ユンに、自分は警察へ行くと言い出します。

ユンは説得を試みます。それも偽善の仮面を被って。

ユンの母親は兄モウを溺愛してきました。そのモウがバイクの事故(だったかな?)で亡くなり、今(30年前)その対象はユンに移っています。ユンは、アガンが警察へ行き、すべてを話せば自分も捕まることになり、さらに母親を悲しませ、再び精神的に追いやることになってしまうと考えます。

自身の保身を偽る偽善、母親のせいにする偽善、ユンはそれを自覚している風でもありますが、現実にユンが取ろうとした行為は、アガンを屋上から突き落とすことでした。

ところが、実際にはそうはならなく、その場に隠れていたアガンの弟ダーダーによって、ユン自らが突き落とされたのです。

そして、ユンは昏睡状態に陥り、2年後に目覚めた時には青春の記憶をなくしていたのです。

人が殺人鬼になる理由など誰にも分かろうはずはありませんが、それでも何とはなしに、ああそういうことなのかと思わせつつ物語は終わり、そして、いまパートナー(ジェイはゲイ)とともに暮らすジェイが、ユンの思い出とサックマンについての本を出版しようとしています。

それがこの『僕を殺した人と僕を殺した人』ということなのでしょう。

という物語です。2冊しか読んでいませんので、東山彰良氏がミステリーを得意としているのかどうかは分かりませんが、わたしは結構無理矢理感を感じます。

あるひとつの発想があり、それをミステリー仕立てにするための伏線をいくつか散りばめて物語を組み立てる、それは普通のことかもしれませんが、この小説の場合、それがちらちらと見え隠れする印象です。

そのことは同時にその伏線がうまくこなれていないということも意味します。

ユンの父親が弁護士であること、妻のために息子を置いてアメリカへ行ってしまうこと、モウの死、母親の息子への執着、そうした伏線となる設定がすとんと落ちるところまで書き込まれていないように感じます。

また、ジェイがゲイであること、継父に DVを受けていること、優等生であったジェイが不良に変わることなども同様ですし、アガンの父親は蛇に噛まれて死ぬために台北から遠ざけられたように見えますし、アガンの弟ダーダーにいたっては、ユンを突き落とすための人物としてしか存在させていないのではないかとさえ思えてきます。

面白かったのですが、何かすっきりしない、これを書くのなら他に方法があったのでは?と思わせた作品でした。

東山彰良氏本人のエッセイがありました。

かねてよりあたためていた物語にとりかかった。

それは1984年の台湾を舞台に繰り広げられる、4人の少年たちの物語だ。それぞれの家庭に問題を抱えながらも、13歳の少年たちが熱くて、危険で、キラキラまぶしい台北の街を颯爽と駆けぬける。そして30年後、彼らのうちのひとりが連続殺人鬼になってしまう。

『流』が”光”なら『僕が殺した人と僕を殺した人』は”影”——東山彰良の最新作は、台湾が舞台の青春ミステリー | ほんのひきだし

流 (講談社文庫)

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