三浦しをん著『光』

光 (集英社文庫)

光 (集英社文庫)

 

映画「光」 を見て、いくら何でも原作はこんなにひどくないだろう(ペコリ)と思い読んでみました。

んー、原作も結構あっさりしていますね。

ただ、やはり物語の軸は、映画「光」(ほぼネタバレ)全員ミスキャストに見えてしまう、それは監督の責任 – そんなには褒めないよ。映画評 で書いたように、

輔は、父親からの虐待もあり信之を慕う気持ちが異常に強く、信之を探し続けてきたのでしょう。25年後、やっと探し出したものの、屈折した気持ちから素直に会うことはできず、妻の南海子を誘惑し不倫関係になることや美浜島の殺人で脅したりすることで、25年前のように信之と繋がろうとしているのだと思います。

信之は、ごく普通に見える生活を送っているようにみえますが、美花への異常で強い執着を断ち切ることはできずに、現実生活にリアリティを感じられない人物なんでしょう。

美花は、異常に男を引きつける魅力があるのでしょう。

そして、そのすべてが25年前のあの美浜島の濃密な夏の日から始まっているという、そういう物語なんだと思います。

ということで間違いありませんでした。

小説のスタイルは一人称記述ではあるのですが、各章ごとに記述視点が変わります。

「一」が美浜島の話で、中学生の信之の視点、「二」以降は二十数年(?)後の川崎となり、まずは信之の妻南海子の視点、「三」が輔の視点、「四」が信之の視点、そして「五」がふたたび南海子の視点で記述され終わります。

映画を見ていて、南海子のシーンが多い割に大した役回りじゃないような気がしていたのですが、原作自体の位置づけが大きかったんですね。五章のうち二章が南海子に割り当てられています。

作者が意図してやっていることですので一読者がどうこう言っても始まりませんが、この南海子がステレオタイプの主婦タイプであることが、この小説をつまらなくさせており、それをそのまま映画でも取り入れたことが映画もつまらなくさせているそもそもの原因だと思います。

主婦がつまらないと言っているわけではなく、この南海子は、いわゆる団地住まいであることを引け目に感じて、多摩川を挟んだ川向こうのマンション住まいに憧れており、娘の椿を小学校受験専門の幼児教室に通わせ、そこの母親たちにも劣等感を感じ住まいの場所さえ言えないでいるという設定です。

仮にそうしたステレオタイプな人物像であっても、人物描写がしっかりしていれば、それはそれで読み応えも生まれると思いますが、南海子(だけではないのだが)の章を読んでいても、何やら愚痴を聞かされているような気になってきます。

特に、ラストの「五」に至っては、信之が二週間戻ってこないことで将来の収入や生活を悲観する件はさすがに読み進むのをやめようかと思ったくらいです。残りのページ数が残りわずかということで何とか読み終えたようなわけです。

なぜ、南海子をこんなにもフィーチャーしたのか分かりませんね。

信之の美花への思いも殺人を犯すほどの強さは感じられません。美花自身がほとんど登場しませんし、魅力の一端さえ感じられません。信之の言葉でいくら美しいと語られても読む者には魅力は伝わりません。

となれば、残るは信之と輔の関係かとも思うのですが、これも腑に落ちるようなところまでは書きつくされているようには思えません。

結局、こうした怨念の物語を主人公をころころ変えて書いていることが失敗なんだと思います。

と言うより、怨念の物語など書かれているわけではなく、自然の(暴)力(津波)の前では人間ひとりの(暴)力などかき消されてしまい、生きる気力さえも失われてしまうとでも言っているのでしょうか。

まさかね…。

舟を編む (光文社文庫)

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舟を編む

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