ケン・リュウ著『円弧 アーク』感想・レビュー・書評・ネタバレ

映画「Arc アーク」を見て、こんな陳腐な(ペコリ)映画になってしまう SFの原作とは一体どういう作品なんだろうと図書館に予約しておいたものがやっと順番が回ってきました。ケン・リュウさんという作家を知りませんでしたのでその興味もあります。

あらためて映画を見たのはいつだったんだろうとレビューの日付を見てみましたら、なんと今年の6月25日です。1年くらい前の感覚なのに、まだふた月半です。

 

 

 

 

永遠に生きる

原作を読んで意外だったのは、永遠に生きることを割と肯定的に捉えているように感じられたことです。

 

もちろん、結局リーナは「生命延長」をやめて「死」を選択をしますが、その決断をする(心の)過程がほとんど書かれていません。

 

その時のパートナーであり、自身は生命延長を選択していないデイヴィッドも「僕のためにそういうことをするのはやめてくれ。君の人生であり、君が選択すべきだ」と止めようとしていますし、生命延長を実現させたジョンとの間の子どもであるキャシーはリーナを説得して生き続けさせようとしています。

 

キャシーは

「死のない人生は変化のない人生というのは真実じゃない。恋に落ち、愛を失うこともある。すべての恋愛と結婚に、すべての友情と気まぐれな出会いに、円弧(アーク)があるの。はじまりと終わりが。寿命が。死が。」

と、リーナに言っています。

 

つまり、タイトルとなっている「円弧(アーク)」を円周のある一点から別の一点までと捉え、それを人の命に例えているということであり、リーナがその選択をしたことに対して、キャシーは、恋愛、結婚、友情、あらゆる人との出会いと別れもはじめと終りがあるわけだから、生き続けてそれを楽しめばいいと言っているわけです。

 

輪廻転生

永遠に生きることを直線的ではなく円環ととらえているということです。

 

「輪廻」という言葉が浮かんできます。生まれ変わるということは基本的には「苦」ですから、生き続ければ「苦」から開放されるということでしょうか。「解脱」です。

 

そうした死生観がベースにあるのかどうかはわかりませんが、ただ、この小説が語っているのはあくまでも身体的、物質的な「死」であって、円環に囚われたものの「苦」ということについては何も語っていません。

 

上のキャシーの「恋愛、結婚、友情、あらゆる人との出会いと別れもはじめと終りがある」という理屈が成り立つのは、人間に記憶というものがなければであって、人間は時間の中に囚われている存在ですので100年生きれば100年の記憶が溜まっていきます。

 

それが「苦」なんですから、それを語らずに「永遠に生きる」ことを語ってもあまり意味はないと思います。単純に考えれば、失恋もあれば、離婚もあれば、喧嘩もあります。その記憶を抱えて生きていくということです。

 

もちろんこの小説にもその意識がないわけではなく、リーナが一言だけ語っています。

「私に年をとって死ぬ決断をさせたのは愛ではなかった。時間から自由になりたいという願望だった。何度も何度もはじめなければならないことから自由になりたかった」

 

あたり前のことですね。それでもキャシーは諦めません。

「死が生に意味を与えるというのは神話だわ」

と反論します。

 

死は生に意味を与える無意味なのです

フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチが「死は生に意味を与える無意味なのです」という言葉を残しているそうです。

 

この言葉を紹介されている鷲田清一さんの解説も読んでいませんのでこれがどういう文脈で語られた言葉かはわかりませんが、最後の「無意味」の意味を置いておけば、人は自分の未来に「死」という断絶があることを知っているので、この今の「生」というものの意味を考えるという意味であることまでは間違っていないと思います。

 

「無意味」の意味は難しすぎますので放っておくとして、キャッシーは「死」があるから「生」に意味があることを神話という言葉で否定し、「生命延長」により「死」を克服した人生にも意味があるということを言っていることになり、それがなぜかといえば、恋愛、結婚、友情、出会いがあるからだというになります。

 

作者のケン・リュウさんが同じことを考えているわけではないのでしょうが、現実に「死」を避けられないにもかかわらず「死」を恐れ、仮に「死を克服」したらしたで「生」を恐れるかもしれないという苦悩の循環を止めたいという願望があるのかもしれません。

 

プラスティネーション

で、「生命延長」をやめたリーナは、自分の老化を詳細に記録していくことで「存在についての嘘偽りのない真実のため、長く斬新的な幻想の剥奪の記録」を残そうとします。

 

その一文の前段は、

「日々、高精度スキャンが、すべての劣化していく感覚、すべての衰えていく器官、すべての機能の喪失を追っている。私の記録は、人体の死への旅をいまだかってないほどもっとも完全な形で残すものになるだろう。」

とあり、つまり、「生命延長」は長く斬新的な幻想だったということになります。

 

「生命延長」は幻想だと言っていますので、最初に書いた「永遠に生きることを割と肯定的に捉えている」というのは間違っているかもしれませんが、やはり、上にも書きましたように、この小説の中で語られていることは一貫して「肉体」「身体」のことであることには変わりはありません。リーナは「時間から自由になりたい」と言っていたのにその苦悩を語り残すことはしようとしないわけで、あくまでも残すものは身体的な老化であり、失われていくものの記録ということです。

 

映画の出来は必然

と考えてくれば、あの映画の出来は必然ということかもしれません。

 

かなり原作に即して映画化してあるように思います。