村上春樹著『ドライブ・マイ・カー』感想・レビュー・書評・ネタバレ

村上春樹さんの短編小説『ドライブ・マイ・カー』が濱口竜介監督によって映画化され、現在カンヌ映画祭のコペンティションに出品されています。

その小説は『女のいない男たち』という短編集に収録されており、映画を見る前に読んでみました。

女のいない男たち (文春文庫)

女のいない男たち (文春文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 文藝春秋

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映画は8月20日公開

映画の公式サイトがあります。

90秒の予告編が上がっていました。

これを見ますと原作から随分膨らませてあるようです。と言いますか、言葉としては分解してあるといったほうが正しいのではないかとの感じがします。

原作では、俳優である家福が免停になり、出演中の都内の劇場へ通うために専属ドライバーとして渡利みさきを雇うという話で、しばらくして共に馴染んできた頃に、家福が妻の不倫の話をし始めるという内容です。妻は10年くらい前に亡くなっています。加福はあれこれ計算しますと60歳近い年齢だと思います。

小説の詳しい内容は後ほどとして、映画の話をしますと、3時間という長尺の部類に入るのではないかという長い映画になっています。確かに加福はかなり屈折した人物ですのでその深さ(実は浅いかも)を描こうとしたらそれくらいの時間は必要とも考えられます。いずれにしても期待は膨らみます。

映画の出演者を見ますと、家福の年齢をもう少し若くし、また、演出家でもあるとしてなにか上演する舞台劇が絡んでくるようです。韓国や中国系を思わせる俳優さんの名前が上がっていますので国際演劇祭なんでしょうか。原作の家福がチェーホフの「ワーニャ伯父」に出演していますし、予告編ではピストルを発射するワンカットがありますので多分「ワーニャ伯父」の話が絡んでくるのでしょう。

濱口竜介監督は、前作の「寝ても覚めても」でも原作にはないチェーホフの「三人姉妹」やイプセンの「野鴨」の舞台劇を使っていましたので本人が舞台劇が好きなのかもしれません。

小説「ドライブ・マイ・カー」ネタバレあらすじ 

まず、家福が女性ドライバーをどう見ているかが語られます。

これまで女性が運転する車に何度も乗ったが、家福の目からすれば、彼女たちの運転ぶりはおおむね二種類に分けられた。いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ。

こんな感じです。それが2ページほど続きますが、これは家福の考えというよりも村上春樹氏のエッセイみたいなものじゃないかと思います。

家福は舞台俳優であり、車の中で台詞の練習をしたいこともあり、日常的に車で移動しています。その移動の際に接触事故を起こし、酒を飲んでいたために免停になっています。愛車はサーブ900コンバーティブルです。

車を修理に出していた修理工場の大場からドライバーを紹介されます。渡利みさきと名乗ります。家福は女性であることに戸惑いを感じますが、実際に運転させてみると運転は的確であり優秀であることがわかり専属ドライバーとして雇うことにします。

みさきは寡黙(実は違う)な人物です。加福が雇うことを伝え、なにか希望は?と尋ねますと「とくにありません。この車が気に入ったから」と答えます。

家福のマンションがある恵比寿から銀座の劇場への送迎が始まります。

助手席に座る家福は亡くなった妻のことをよく考えるようになります。妻は家福より2つ年下で主役クラスの俳優です。家福が29歳のときに出会い、亡くなるまでの20年間、家福は妻を愛していたと考えています。

家福は結婚している間は妻以外の女性と寝たことはありません。しかし、妻は時折、少なくとも4人の男と性的な関係を持っていたと家福は考えています。

加福にはなぜ妻が他の男たちと寝なくてはならなかったのか理解できません。結婚以来、ふたりは良好な関係を保ってきたし、互いに熱心に語り合ったし、互いに信頼しようと努めてきたし、精神的にも性的にも相性は良かったはずだと家福は考えています。

家福と妻の間には3日だけ生きた子どもがいました。生まれつき心臓に問題があったからですが、このことでふたりは深く傷つき、ふたりの関係も危機に陥ります。なんとか乗り切ったものの妻は「もう子どもはつくりたくない」と言います。家福も受け入れ、ふたりは仕事により集中するようになります。妻が男と性的関係を持ち始めたのはそれ以降です。

その子どもは生きていれば24歳になります。みさきは24歳です。

ある時、みさきが家福になぜ俳優になったのかと尋ねてきたことから話が弾み、みさきが自分の両親のことを話します。母はよく酒で問題を起こしており、ある時酔っ払い運転で木にぶつかって即死していること、そして父親は8歳の時に家を出て居所もわからないと話します。母親は夫が出ていったのはお前が醜いからだとよくみさきを罵っていたと言います。

また、みさきは家福になぜ友だちをつくらないのかと尋ねます。家福の行動パターンをみての質問ですが、しばらくして家福は唐突に、最後に友だちらしきものをつくったのは10年前のことだと語り始めます。その男は自分より6、7歳下の俳優で妻と性的関係を持っていたと。

ここまで50ページ(文庫)ほどのちょうど半分です。

後半は、家福がその男、高槻耕史と会い、妻のことについて話すようになった経緯とその話が家福の回想シーンのように描かれていきます。

妻が亡くなって半年後、誰か妻のことを話せる相手がほしいと高槻に声をかけます。この男と妻が寝ていたのだという妄想と戦いながら何も知らないふりを装います。そしてわかったことは、高槻が妻に強く惹かれていたこと、別れを告げたのは妻の方からと思われ、高槻は未練を持っていると感じられるのです。

その後二人は幾度も会い、家福は二人は友だちになったと言います。そしてある時、家福は、自分が妻の大事な部分を理解できていなかったのではないか、妻を失った今、それを理解することは永遠に不可能になってしまったと正直な気持ちを話します。

それに対して「その気持はわかります」と答える高槻に家福は「わかるってどんなふうに?」と畳み掛けます。そして、家福は、高槻が妻との関係を告白しようかと逡巡する姿を見ます。

高槻は、妻が素敵な女性であったと語りはじめ、

そんな素敵な人と二十年も一緒に暮らせたことを、家福さんは何はともあれ感謝しなくっちゃいけない。(略)でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。(略)しかし自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。(略)本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深く真っ直ぐ見つめるしかないんです。

と言います。

家福はこの言葉を高槻の偽りのない言葉と受け止めます。そして、その後は誘いの連絡があっても一切無視します。

再び車の中に戻り、「なぜ会わなくなったのか」と尋ねるみさきに「演技をする必要がなくなったからだ」と、そしてさらに「でも別のこともある」と答えたまま、その別のことが何であるかは口を濁したままになります。

そして話はみさきの器量(母親に詰られていた)の話から「ワーニャ伯父」の話になり、家福が、妻を失った喪失感とそれでもなお生きていかなくてはならない忍耐をワーニャの台詞を引用して吐露します。

そして、加福は、実は高槻への復讐を考えていたが、ある時急にどうでもよくなってしまったと言います。

おそらくこれが高槻に会わなくなった「別のこと」なんだと思います。

そしてラストは、家福が「高槻ははっきり言ってたいしたやつじゃないんだ。正直だが奥行きにかける」と自分を慰めながらも「なぜ妻が自分以外の男と寝たのかわからない」と言えば、みさきは「奥さんはその人に心なんて惹かれていなかったんじゃないですか、だから寝たんです。女の人にはそういうところがあるのです。病のようなものです。考えてどうなるものでもありません。こちらでやりくりして飲み込んでやっていくしかありません」と慰めて終わります。

チェーホフ「ワーニャ伯父」

この小説、チェーホフの「ワーニャ伯父」を下敷きにしていますね。

家福はワーニャですし、みさきはソーニャです。

ワーニャとソーニャは伯父姪の関係です。ワーニャは結婚しているわけではありませんが、ソーニャの母である妹の元夫の若き妻エレーナに恋をして失恋します。その元夫は引退した大学教授でしょうもないやつです。

ソーニャは器量のよくない女性となっており、小説では、戯曲を読んだみさきが「ああ、いやだ。たまらない。どうして私はこうも不器量に生まれついたんだろう?つくづくいやになってしまう」と自分に重ね合わせるようにやや冗談めかしてソーニャの台詞を語りますし、それに答えて家福がワーニャの台詞で「ああ、やりきれない。どうにかしてくれ。私はもう47になる。60で死ぬとして、これからあと13年生きなくっちゃならない。長過ぎる。」と返しています。

そして、ラスト、みさきが家福にかける慰めであり、また自分への励ましである一連の言葉はソーニャの台詞のみさきヴァージョンなんだと思います。

ソーニャ:仕方ないのよ、生きていかなければ! あたしたち、生きていきましょう、ワーニャ伯父さん。いつまでも続く果てしない毎日や長い夜を生き抜きましょうよ。運命がわたしたちにつかわす試練に我慢強く耐え抜きましょうね。

生きることは演技すること

そしてもうひとつの主題は「演技」でしょう。

これは、家福が俳優であり頻繁に「演技」という言葉を使うことで明示されています。

我々が生きる世界は常に「演技」することで成り立っており、しかしながらその演技は硬直したものではなく、人は他者と相対する時、それが仮に親密なる関係の他者であっても演技することでその相手との関係を築き、そして次の瞬間にはその関係によりまた新たな演技をしているということなんだろうと思います。

加福は一貫して高槻を見下しており、常に優位に立つべく「演技」をしています。自分は妻と高槻の関係を知っているが、高槻はそのことを知らないと加福が思っていることは、加福にとって自分の優位性を保つ最後の砦であり、それはその場を自分がコントロールしているという自負として現れており、実は高槻にとって妻との関係はつかの間の遊びではなく心底妻を愛していたらしいと感じることで満たされ、その高槻が妻の入院時に面会を申し出てきたにもかかわらず会わせなかったことでさらにその優位性を補強しています。

加福の「そして僕らはみんな演技する」は村上春樹氏の価値観でもあるんだろうと思います。