彩瀬まる著『やがて海へと届く』感想・レビュー・書評・ネタバレ

中川龍太郎監督に注目しているということもあり、「やがて海へと届く」を見て原作を読んでみました。どことなく感じていたしっくりこないいくつかのわけがわかりました。

 

 

 

小説でもすみれの存在感はうすい

原作でもすみれの具体的な描写は多くありません。2シーン(印象がそうであったのですが、ざっと読み返したらもっとありました)くらいです。

確かに、章は交互に現在の湖谷真奈の一人称視点と、死後の世界かどうかははっきりしないまでも、すみれが津波で流される時点のすみれ視点の描写で描かれていきます。すみれ視点の章は、すみれが見聞きしているイメージの夢幻的な世界が記述されていきますので人物像が浮かんでくることはありません。

 

で、ふと思ったことは、映画ですと岸井ゆきのさん演じる湖谷真奈は「真奈」という印象、つまりすみれからそう呼ばれるシーンが多いためにファーストネームのイメージなんですが、小説は真奈の一人称記述であり、周りからは「湖谷」と呼ばれます。回想シーンではすみれが真奈とは呼びますが、それ意外には自分のことを真奈などとは言わないわけですから「真奈」という表記もほとんどなかったと思います。

 

そうした名前からの印象が象徴しているように、映画には「真奈」と「すみれ」の物語のような部分があり、それについて「真奈とすみれの関係描写が物足りない」とレビューに書いた、そのしっくりこなさ加減のわけが解けたということです。

 

小説で描かれているのは、「湖谷」が3年前に亡くなったすみれの呪縛(ちょっと変か)から解き放たれていく過程であって、過去の「真奈」と「すみれ」の関係ではないということです。

 

すみれとの出会いのシーンである、大学でのサークル勧誘や飲み会のシーンは映画の創作でした。すみれと旅行をして海を見るシーンやすみれが真奈のアパートに家出(?)してくるシーンは確かにありますが、それでさえすみれの人物像が浮かんでくるような記述ではありません。

 

映画は原作には存在していないすみれを実像化したということであり、やはり映像の印象の強さと言いますか、小説ではぼんやりとしてしか存在していないすみれが映画では浜辺美波さんという実像として立ち現れてしまうということかと思います。

 

湖谷真奈の恋の物語

じゃあ原作はどんな話かといいますと、ややうがった言い方になりますが、「湖谷真奈」の恋の話です。

 

前半は、すみれが一緒に暮らしていた遠野敦が、すみれの荷物を整理したいと湖谷の職場を訪れるところから始まり、実際に形見分けのようなことになるわけですから、それぞれのシーンには常にすみれの存在が感じられるわけですが、後半になりますと、職場の上司の自殺があり、同僚の国木田と国木田の実家の民宿へいく段になり、湖谷の日常からもすみれの存在が消えていきます。

 

そして、国木田の実家への一泊旅行ですみれが国木田に入れ替わります。描写としては、ふたりで山にトレッキングに出掛け、湖谷が幻覚のようなものを見てすみれの世界に引き込まれそうになるところ、つまり湖谷が夢遊病者のように実際に危険な方へ入り込むのを国木田が「湖谷!」と叫び腕を掴むというシーンになっています

 

そしてその旅行からの別れ際、ふたりはキスをします。

 

5ヶ月後、遠野と一緒にすみれの墓参りに行った際に、湖谷は「私、好きな人ができたよ」というのです。

 

フカク、フカク

すみれの各章では、「フカクフカク」という言葉がなにかの呪文のように語られます。

 

フカクフカク愛し愛されたいという意味あいと、すみれが海の底にフカクフカク沈んでいくイメージとが合わさった言葉なんだろうと思います。

 

私たちは世界の片側しか見ていない

映画では「私たちは世界の片側しか見ていない」という言葉が象徴的に使われていましたが、小説にはなかったと思います。やや読み飛ばし的に読みましたので見落としているかも知れませんが、テーマとしても小説にはそうした視点はありません。映画のオリジナルということでしょう。

 

映画としてのそのテーマがビデオカメラで表現されていたわけですが、映画のレビューでは発想はいいにしても効果的に使われていないと書いています。そもそも小説にはその視点がないことからの結果でしょう。

 

小説の中のすみれは真奈を見ていません。この小説には、「真奈」と「すみれ」の関係においてすみれから真奈への世界はないということです。

 

やはり、ひとつの作品としては、すみれの章がひとつの作品の中にうまく収まっていないということだと思います。

 

映画があまり良い出来でないのは、そのあたりに苦労した結果ではないかと思います。

 

四月の永い夢