遠野遥著『破局』感想・レビュー・書評・ネタバレ

2020年上半期芥川賞受賞作です。面白いですし、新しさ、言い換えれば今どきの才能ともいえるものを感じます。

気持ち悪い…

読み終えた直後の読後感は「気持ち悪い」です。

内容じゃありません。主人公である「私」の人物造形が気持ち悪いのです。「私」という人物には、実体感と言いますか生命感が感じられません。「私」は鍛えられた肉体を持ち、正しくあらねばならないと考えて行動し、恋人もいてセックスもすれば友人もいるわけですが、読み進めば進むほど「私」は実は幽霊ではないかと思えるくらいなのです。文中にはゾンビという言葉が登場します。

「私」は大学四年生、公務員試験を間近に控えています。ラグビーと筋トレで鍛え上げられた肉体を持ち、高校時代の恩師に頼まれて後輩の指導にいっています。同学年の麻衣子と付き合っていますが、麻衣子は政治家を目指して忙しくしており、あまり会えなくセックスもできなくなっています。その麻衣子とは、麻衣子の方から去るような形で別れます。

そんな折、新入生の灯と出会い、付き合い始めます。灯はとても性欲が強く、会えば一日中セックスをしているという状態になります。そして、ある時、灯から「私」が裏切ったのが許せないと別れを告げられます。「私」が麻衣子と寝たというのです。灯は走り去っていきます。「私」は追いかけます。しかし、その行為が暴漢と見間違われ、立ちはだかった男と格闘になり、男を殴り飛ばす結果となり、やがて駆けつけた警官に取り押さえられます。

という、筋だけ語れば下世話にも思える話なんですが、とんでもありません、これが実に奇妙な印象の小説なんです(笑)。

正しくあらねばならない

記述スタイルは、陽介である「私」の一人称記述です。「私」は常に正しくあらねばならないと考える人物であり、良くないことが頭に浮かんだとしても、それはマナー違反だからしないことにしたなどという言い回しが頻繁に登場します。ポイントは良くない(と「私」が判断した…)ことが頭に浮かぶというところでしょう。

麻衣子の誕生日、久しぶりのデートです。シティホテルに泊まるくだり、

最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることは出来ない。無理にしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。それに、私は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることは出来ない。麻衣子が目標に向かって頑張っているなら、それを応援するのが私の役目だろう。

(36p)

こんな具合です。文章自体もかなり特徴的です。

で、その後、「私」は麻衣子とキスをしますが、麻衣子が今日は「月のものの都合で」出来ないと言い、「私」は自分の性器が勃起していることに対して、

私の性器はまだ固いままだったから、恥ずかしくなって観覧車の方(注・ホテルからの風景…)に体を向けた。恥じることではない気もしたが、やはりマナーとして見せるべきではないと判断した。

とにかく、こうした頭に浮かんだ良くない(と「私」が判断した…)ことに対して、しないことにしたとか、するべきではないなどいった表現を多用しています。

おそらくこれは、「私」のストイックさの表現ではなく、「私」の内面に渦巻く性欲と暴力性、つまりは象徴的な意味での男性性を持て余しているということなんだろうと思います。

一方通行の会話

他にも特徴的な文体があります。友人や恋人との会話文では相手が一方的に話し続けるという手法がとられています。会話として成立している文章ではないのです。

たとえば、友人である膝が自分のお笑いライブに来て欲しいと電話をしてくるくだり、膝の会話文が3ページにわたって続きます。そして、その膝の会話文に対して「私」が返事をしたり、反応したりする記述はありません。

麻衣子が、別れた後に話がしたいと言い大学のカフェテラスで会うくだりでは、麻衣子は13ページにもわたって話し続けているような記述になっています。この麻衣子の話は、小説の筋的なものとは直接関係がなく、麻衣子が子どもの頃からよく見る夢の話で、これも男の暴力性に関する内容になっています。その夢は麻衣子が男に追われる話で、おそらくこの男は「私」を暗示しているんだろうと思います。ただ、それに対して「私」が何らかの反応を示す記述はありません。

灯から別れを告げられるくだりでも、ここは幾度か「私」の反応が地の文で入りますが、それでも灯が数ページにわたって喋り続ける記述になっています。

こうした表現方法によって「私」の実在感がどんどん消えていきます。つまり、一人称記述ですので「私」は相手の話を聞いているはずなんですが、相手が話しているうちにいつの間にか「私」が消えてしまうような感じです。

ただ、灯との場面はちょっと違っており、上に「私」の反応が地の文で入ると書きましたが、それまで筋肉とストイックな精神性の鎧によって実在感を消していた「私」が、突然生々しく狂い出すような感じのするシーンなんです。

ラストわずか10ページ程度の、いわゆるクライマックスにもなっているシーンですので、その唐突感はかなり異様で、これが作者に意図したものなのか、あるいは未熟さ(ペコリ)の現れなのかは他の作品を読んでみないとわかりません。

性欲と暴力性

その唐突感は、むしろ灯の異様さとして始まります。

で、その前にそもそもの灯と「私」の関係に触れておきますと、灯とは膝のお笑いライブの会場で偶然出会ったことから始まります。ただその偶然は、常に「私」が魂胆を持って生きている(存在している…)がゆえにあたかも偶然として発現しただけの偶然です。つまり、劇場で男性と女性の隣の席があいている場合に女性の隣に座り、さらにその女性と知り合う可能性があるかも知れないと考えるかということです(わかりにくいかな…(笑))。

その後は、「私」のストイックさ(欲望を抑え込んでいるという意味…)を描きたかったからだと思いますが、むしろ灯の積極さを強調しています。灯は、「私」の公務員試験合格のお祝いにケーキを作ったので食べに来てと誘います。「私」は恋人がいるからそれはできないと断ります。

それで終われば本物かもしれませんが、結局「私」は誘われるがままに灯の部屋に入り、灯を抱えてベッドに横たえキスするところまでいきます。その後セックスまでいったかどうかははっきりしません。どこまでいったかという行為自体にはあまり意味はないでしょう。実際、それ以前に「私」は麻衣子の誕生日にセックスができないからと灯を思い浮かべて2度も自慰してすっきりしたと言っているわけです(ホテルのシーンのその後…)。

という前置きがあり、「私」の意識としては麻衣子と別れた後、灯との関係はゆっくり始めたいと考えていたにも関わらず、積極的な灯の求めに応じてセックスする関係になります。

「私」の認識としては、灯は性欲が強い女性であり、たとえば朝目覚めると灯が「私」の性器を握っていたり、その性器と話をしていたりすると表現されています。旅行に行けば、一日中ベッドの中にいることを好む女性として表現されます。

小説全体にセックスや自慰といういう表現が多いのですが、生々しい表現はありません。今ふと思いついたことですが、「私」はセックスマシーンのような印象もあります。愛情表現は一切ありませんし、そう言えば、麻衣子が別れた後にいきなりやってきて、寝ている「私」の性器を握り、自ら挿入し、「私」が射精する直前に抜いてそのまま帰っていったという場面もありました。

そうした「性」の暴力性(男女問わず…)は、時々ふっと入るテレビニュースの記述にも現れています。強制わいせつ罪で逮捕された男、元交際相手のアパートに侵入した男、女性用トイレを盗撮した男、なぜかそれら皆巡査部長なんです(笑)。そのニュースを見て「私」は「犯罪者が捕まるのはいいことだ。報いは受けさせないといけない」と思うのです。

で、ラスト10ページほどのクライマックスです。

灯が性欲マシーン化しています。一日中セックスをしている状態です。「私」が外へ出ようと提案しても灯は「セックスをしないと物事にうまく集中できない」と言います。それでもバイトがあるだろうからなにか食べないといけないとカフェへ連れ出します。

灯が話があると言います。すでに一方通行の会話文として触れたところです。灯は麻衣子に偶然会い、知らない人だけれども見ただけでそれとなくわかったと言います。そしてあれこれ話しをした後、別れ際に麻衣子が「この前終電を逃して、陽介くんの家で休ませてもらった」と微笑みながら言ったと語ります。

さらに灯は、今は「私」の気持ちがよくわかる、性欲に勝てなかっただけなんだと思うと言い、今は自分も筋肉質の男の人を見ると抱いて欲しいと思うようになり、それを我慢するためにいつも安全ピンを持っており、そう思ったときには指を刺していたと言います。

そして、「でも私がそうやって我慢していたのに、陽介くんは我慢しなかったんですよね」と言い、走り去っていきます。

その後はすでに書いたように、「私」が追いかけ、暴漢と間違われ、止めようとした男性を殴り、駆けつけた警官に取り押さえられ、

私は疲れていたから、もう何かを思ったりは出来なかった。警官が、私の体を優しく押さえていた。彼の手はとても暖かく、湯につかっているかのように、心地よかった。私はこのまま、眠ることに決めた。私はいつだって、眠りたいときはすぐに寝付くことができるのだ。

と、終わります。

この押さえ付けられてもう起き上がれない状態というのはラグビーのタックルで倒された時の隠喩です。

それにしてもかなり唐突で異様な場面です。おそらく灯と「私」は同一化された存在なんだろうと思います。灯は「倒されても立ち上がり」、しかし「私」は「倒されて立ち上がれない」という意味に置いて自己分裂したセックスマシーンの両面なんでしょう。

何度でも立ち上がる、ゾンビみたいに…

高校生たちにラグビーの指導をするシーンが何度かあります。「私」のラグビーの基本はタックルです。

相手を倒してそこで終わりじゃない。すぐに立ち上がって、次のプレーに移る。きつくても何度でも立ち上がる、ゾンビみたいに。そう、全員ゾンビになれ。今からお前たちはゾンビだ。ゾンビみたいに最後まで立ち上がり続けたほうが勝つ。

(60p)

ただその指導法も、最後には指導を依頼してきた恩師からも拒否(婉曲的に…)されます。また、当の高校生たちからも「大学じゃ通用しないんだろう。だからいまだにここに来てイキッてんの」と陰で揶揄されてしまいます。

ということからすれば、結局のところラストの「私」はゾンビにもなれなかった、いや、ゾンビではなく、やっと生身の肉体を持った人間になれたということなのかも知れません。もしそうであるのなら、強固な肉体と正しくあらねばならないとの思い込みの精神論を捨てたということなのかも知れません。

あるいは著者は現在31歳、今どきの青年ですので、昭和的精神論を冷たく見放しているのかも知れません。

まあそれはないとは思いますが、とにかくつかみにくい小説です。逆に言えばそれだけうまいということなんですが、それを少し離れたところからの表現で言いますと、書き手の計算高さが感じられるということで、そういうことを出来てしまう才能が気持ち悪いということも言えます。

まだ他にも書きたいことはあったように思いますが、他の作品も読んでからにしようと思います(笑)。