今村夏子著『こちらあみ子』感想・レビュー・書評・ネタバレ

別サイト「そんなには褒めないよ。映画評」のよく読まれている記事に「こちらあみ子」が上がっていましたので読み直して、その記事の中のこの「今村夏子著『こちらあみ子』感想・レビュー・書評・ネタバレ」のリンクをクリックしてみました「記事が見つかりません」の表示となり、え?! と調べてみましたら、ちょうどはてなブログから WordPress に移した時の記事らしく移し忘れだったようです。

以下は、2022.07.25 に書いた記事です。

映画化された「こちらあみ子」を見て原作を読んでみました。今村夏子さんの本は芥川賞受賞作の『むらさきのスカートの女』を読んでいますが、よさがまったくわからずその意味ではリベンジでもあります。

2010年のデビュー作にして太宰治賞と三島由紀夫賞を受賞しています。

映画「こちらあみ子」のレビューはこちらです。

あみ子の脳内世界

圧倒的な語り口です。一気に書き上げたような力強さがあります。あっという間に読めてしまいます。

ここに書かれているのは完全なるあみ子の世界、他者との関わりがない、関わりが持てないという意味ではあみ子の脳内世界です。

ですので客観的な記述はまったくといっていいほどないのですが、この脳内世界を現実世界に当てはめれば、あみ子は、大人のみならず同年代も含めまわりの人間には理解できない存在だということです。ただそうした記述は一切なくただただあみ子の世界があみ子の言葉として書かれていくだけです。

あみ子の小学生時代と中学生時代が話の中心ですが、あみ子以外に登場する同級生ののり君、両親、兄など、みな一応に存在感がありません。あみ子の一人称小説ですので当然あみ子視点で書かれていくわけですが、あみ子には第三者視点というものがありません。相手がこう思っているかも知れない、たとえば自分の行為によって相手が怒っているかもしれないと思えば謝罪の気持ちやら後悔やらいろいろな思いが浮かぶのですがあみ子にはそれが一切ありません。ですので他者との関わりは単に行為の事実が書かれていくだけです。

登場する人物のうち、両親の存在感の薄さが特異です。義母である母親はすでにあみ子を遠ざけるようになっているところから書き始められています。父親はすでにあみ子とのコミュニケーションをあきらめています。両親共にもう手に負えないと思っている設定になっています。

兄は、小学生時代にはあみ子を守ろうとしたようですが家族崩壊後は暴走族となり家にも寄り付かなくなります。小学生時代には兄として語られますが、中学時代の後半に登場したときには田中先輩となっています。あみ子にとっては、兄という言葉に家族としての兄の意味合いはないということです。

こういうところはうまいですね。

同級生ののり君はあみ子が親しくしてくることを嫌がっています。中学生になりついに爆発しあみ子の顔面を殴りつけます。あみ子は前歯を折られ何針か縫う怪我をしますが、それに対する記述は一切なくひとりよろよろ帰(ったらしい)り父親の帰りを待つだけです。

これもとてもうまいと感じます。あみ子の存在感が際立ちます。

映画にも登場していた、あみ子が習字の掲示を見てのり君のはどれと尋ねる同級生の男の子、この人物だけは他に比べて妙な存在感があります。積極的に話しかけてきます。風呂に入らないあみ子を臭いと言います。あみ子の答えがちぐはぐでもきっちりコミュニケーションを取ろうとしてきます。このシーンではあみ子も感傷的になっています。

あみ子がその男の子に、自分は気持ち悪かったかねと尋ねると、その男の子は百億個くらいあるでと答え、教えてほしいと言うと、しばらく言いよどみ、そりゃ俺だけの秘密じゃと言うシーンです。

引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かって何でもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子は何も言えなかった。

このシーンは他の部分とは随分異質です。あみ子が人と関わり合いたいと思っているという意味でしょう。

映画化するのは間違い

この小説を映画化しようとするのは間違いです。できるできないということではなく意味がありません。

映画は客観的視点しか持ち得ません。この小説は完全なる第一人称小説です。この小説のあみ子を客観的に描けば映画のレビューに書いたように発達障害の子どもに見えてしまいます。小説がそのつもりで書いているかどうかはわかりませんが、映画にすればあみ子を客観的な視点で描くことしかできないわけですから必然的にその判断を求められます。

小説の場合は周囲の人物、特に両親があみ子を見放していると見えてもそれはあみ子の視点ですから構いませんが、映画にすれば、なぜ父親はあみ子を無視するの?となりますし、なぜ母親はあみ子につらく当たるの、いろいろ努力してきたとしてもなぜなの?となってしまいます。

そのまま放り投げておくなら映画化の意味はありません。答えを出すのならこの原作でなくてもいいことになります。

理解されないあみ子が可愛そうだといったところで意味がないということです。

とにかく、映画は原作通りになぞって撮られているだけです。

あたらしい娘

この『こちらあみ子』のタイトルの意味は小学生の時の父親からの誕生日プレゼントのトランシーバーに向かって

「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」
誰からもどこからも応答はない。
「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子。こちらあみ子。応答せよ」何度呼びかけても応答はない。

から取られています。

初出のタイトルは「あたらしい娘」だったらしいです。「あたらしい」とは、作者にはどういう意図があったんでしょう。興味があります。

ところで、映画のラストは、父親があみ子を田舎のおばあちゃんの家に置いて、言葉はよくありませんが捨てて去っていくような印象で終え、その後に非現実の10人くらいの白塗りの人物が海から手招きしているシーンで終えていましたが、それがまったくもってよくないことはとりあえず置いておくとして、小説はとてもうまい終え方をしています。

まず、小説はアミコがおばあちゃんの家で暮らしているシーンから始まり、裏山にすみれの花を取りに行くところから始まります。その理由は近所の小学生さきちゃんにあげるためなんですが、花を取って坂道をを戻ってきますと遠くから竹馬に乗ってやってくるさきちゃんが見えます。さきちゃんはいつも竹馬でやってくるそうです。

というシーンから、小学生時代と中学生時代の話に入り、そしてエンディング、上に書いた同級生の男の子との会話シーンで中学時代が終わり、再びファーストシーンに戻り、あみ子は竹馬のさきちゃんを待っているのですが、さきちゃんはただ小刻みに揺れているだけではなかなかやって来ません。その時「あみちゃん、あみちゃんな」と家の中からおばあちゃんの声がかかり、

すみれの入った袋を落とした。あみ子はまだびっくりしている。でも呼ばれたのだから、はあいとこたえて祖母の声がする家の中へのと向かう。途中、気になって振り返り、すぐにまた前を向いて歩き出す。だいじょうぶ。あの子は当分ここへは辿り着きそうもない。

うまい終え方です。

『むらさきのスカートの女』のリベンジなりました(笑)。