高瀬隼子著『おいしいごはんが食べられますように』感想・レビュー・書評・ネタバレ

今年2022年上半期の芥川賞受賞作です。ずいぶん前に読み終えているんですが、少し書き始めたまま下書きで眠っていました。これといって書くことがない今どきのテレビドラマのような小説です。でも、うまいです。おもしろく感じるところも多いです。

書くことが楽しそう

著者本人のインタビュー記事を読んだからかも知れませんが、書くことが楽しいということが伝わってくる文章です。その日あったことやムカついたことが書き記された日記のような、そんな小説です。もちろん小説なんですからフィクションです。

ある会社の三人の人間関係が、そのうちの男女二人の一人称で書かれていきます。読み終えた時の印象ではほぼ交互に書かれていたように感じたんですが、今このレビューを書くためにざっと流し読みしてみましたら7割方は男の方の章でした。それを半々くらいに感じたのにはそれぞれの記述手法の違いが影響しているようです。女性の押尾の章の主語は「わたしは」と、私小説風のほぼ完全な一人称なんですが、男性の二谷の方は「二谷は」で語られる三人称視点の一人称記述でした。

なのに、考えてみれば奇妙なことなんですが、この小説の主人公は一人称で語られる押尾ではなく二谷の方なんです。押尾の章はすべて二谷と飲みに行く話で、二谷のことばかり書かれています。

そうか、奇妙じゃないですね。この小説は男性の二谷を女性目線で書くことが主眼ということですね。

二谷

二谷は入社7年目、その年東北の支店から埼玉に移動してきています。ただ、ほとんどそうした仕事絡みのことは物語の前面には出てきません。会社は食品や飲料のラベルパッケージの製作会社で全国に13支店を持つ割と大きな会社ですが、仕事の内容が描写されることもありません。

じゃあ、何が書かれているかといいますと、「食べること」を通しての人生観のようなものです。二谷には食べ物に対する執着心がありません。会社での昼食にカップ麺を食べながら、隣の先輩の弁当をみて「いいよな」と思います。おいしいものが食べられていいよなという意味ではありません。「朝飯も昼の弁当も用意されていて、食べることを考えなくたって生きていける」ことにいいよなと思うのです。

一日ひと粒の錠剤で健康に生きられ「食事は嗜好品としてだけ残る」、そんな世界を夢見ている(わけではなく妄想している)人物です。ただ、それを口にすることはありません。付き合い始めた芦川が料理をしてくれれば、本音を口にすることはなく、ただ「おいしい」「おいしいなあ」「うまい」と言って15分で食べ終わり、別にスーパーやコンビニに行けば売っているんだからわざわざ1時間もかけて作らなくてもいいんじゃないかと思い、わざわざ「おいしい」と言葉にしなくちゃいけないことに疲れを感じるわけです。

押尾

押尾は入社5年目、社外研修会の帰りに二谷に誘われ、「その誘い方がただの同僚という感じがしてよかったので」居酒屋で飲むことになります。仕事仲間が飲みにいけば多くの場合社内の愚痴になります。押尾は二谷にあれこれ水を向けますが、二谷はすでに社内の共通認識となっていること以上のことは語りません。

「わたし芦川さんのこと苦手なんですよね」押尾が言います。

芦川はもうひとりの登場人物で入社6年め、押尾が仕事を教わる立場なんですが、押尾はすでに自分のほうが仕事ができると芦川を見切っています。押尾は、逆に二谷に「(仕事が)できないのがむかつく感じ?」と水を向けられ、「できないことを周りが理解しているところが、ですかね」と答え、さらに芦川本人ができないと言っているわけでもないのに周りが「配慮してる。それがすっごい、腹立たしいんです」と本音で語ります。

そして、押尾は二谷に「わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と言います。二谷は笑いながら「いいね」と答えます。

二谷が異動してきてから3ヶ月、その間の人間関係は語られていませんが、少なくとも初めて二人で飲みに行っての押尾のこの無防備さもすごいです。もちろん単純なやりとりだけではなく、その時の押尾の内面が描かれますし、答えた二谷にしてもそのしぐさや表情の記述があります。でも、なかなかここまで気を許すことはないでしょう。それだけ押尾に溜まっているということや異動して3ヶ月ということがよそ者的で愚痴を言いやすいということの表現とも考えられますが、むしろ一番あり得るのは、二谷が押尾にとって異性だからでしょう。

押尾は「二谷さんは芦川さんよりわたしのことが好きなはず」と思っています。

となりますと、この小説、三角関係の話になりそうですがそうはなりません。二谷は芦川と付き合うようになりますし、押尾も後にそれを知ります。しかし、押尾の中で男女関係の嫉妬が生まれることはありません。押尾は、二谷と芦川のことを知った上で二谷の部屋に行ってみたいと自ら誘いをかけますが、そこには二人の間に割って入ろうとか、二谷を自分のものにしたいといった強い思いのようなものはありません。

結局、二谷は「おれ、同僚とは寝ないよ」と言いながら、「やっぱりする?」と言って始めてはみたものの、押尾がちょっと体を離せば「止めとく?」と言い、押尾がうなずけばするりと抜け出してカップ麺を食べに行ってしまいます。

これが何を意味しているのかはよくわかりませんが、やはり、この小説が著者の男性観の一面を表現したものであることは間違いないでしょうし、またそのベースとしては、今どきの異性関係の何かが現れているんだろうと思います。

芦川

押尾が苦手だといい、後にそれを隠そうともしなくなる芦川がどういう人物であるかは、職場での押尾の見た目と付き合うようになった二谷のプライベートな見た目とによって描かれていくだけです。ですのでかなりパターン化された人物としてしか浮かび上がってきません。

仕事をテキパキとこなすタイプではない、身体が丈夫ではないことを隠さない、体調が悪くなると休んだり早退する、しかし皆に恨まれたり嫌われたりするタイプではないと押尾には見える人物であり、確かに客観的に見ても笑顔を絶やさず、パートさんからは、いい子ねえ、自分たちパートにも優しいし、料理はうまいし、お菓子作りが趣味だし、かわいいしなどと言われる人物です。

二谷にとっては「自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気」な女性であり、行きつけの店に連れていけば知らない間に店主においしかったと挨拶をする女性であり、蔑ろにできない女性と感じるがために寝ることを慎重にさせる女性ということです。

二谷の中の芦川

で、結局、二谷は芦川と付き合うようになり、この後の小説のほとんどは、二谷の芦川に対する二面性(人間の表裏)が描かれていくことになります。

芦川の笑顔をみてはそこに謙虚さという隙をあけていることに苛立ち、おいしそうに食べるところを見て「食べることが好きなんですね」と声をかけて「生きることに必須のことって、好き嫌いの外にあるように思う」と返されれば、嫌うのも許されないのかよと心の中で悪態をつきます。そう思いながらも二谷は、こういう女が自分のタイプかもしれないと言い、そして蔑ろにできないだろうと思いながら芦川と寝ます。

この二谷の二面性がこの小説の主題です。おそらく二谷の人物像には著者の男性観が、そして二谷の芦川をみる目には著者の女性観が反映されているのだろうと思います。

食べ物は人の心をつかむか

芦川の食べもの攻撃が始まります。もちろん本人にはその意図があるないが描かれているわけではなく、結果として、二谷との付き合いにおいては二谷の部屋で料理をすることが常態化して二谷にこれが自分の望む姿かもしれないと思わせ、職場においては、たまたま迷惑をかけたからと翌日にケーキを作って皆に配ったことが恒例化し、芦川も水を得た魚のように生き生きとたびたび新しいお菓子を作っては持ってくるようになります。

二谷は相変わらず心の中では悪態をつきながらの二面性を見せています。そしてついにそれを形に表してしまいます。残業でひとりになった時、分け与えられたその日のタルトを押しつぶし、ビニール袋に入れてゴミ箱に捨てるのです。

クッキー、レモン風味のマドレーヌ、トリュフ、りんごのマフィン、ヨーグルトの入ったチーズケーキ、マカロン、ラズベリーのカップゼリー、ドーナツと続きます。材料費だけでも負担しようとの話が出ていくらかずつ皆から徴収して芦川に渡すことになります。芦川は「いただいた分、これまで以上においしいもの、たくさん作ってきますから!」と笑顔です。

いちごのショートケーキ、焼きバナナ、チョコとマシュマロのマフィン、パンプキンパイ、スウィートポテト、わらびもち、プリン。

そして、二谷は分け与えられたそれらのお菓子を押しつぶしてはゴミ箱に捨てています。

複雑化するお菓子戦争

これはきっとテレビドラマになると思います(笑)。いや、ちょっとハードすぎるかな。

押尾が二谷に声をかけ、職場のひとりから芦川のお菓子を捨てている人がいる、あなたでしょと言われ、それについてはそうじゃないと説明して納得はされたけれども、実は自分はある日の朝、ゴミ箱に捨てられたお菓子を見つけ芦川の机の上に置いておいたことがある、その時芦川は何の反応も示さずそのままゴミ箱に捨てていた、そしてその後もゴミ箱のお菓子を見つけた時は同じようにしていたと話します。

押尾はお菓子を捨てたのは二谷だと知っているということです。

「それを捨てたのは、おれじゃないよ」二谷は続けて「おれは捨てる時、ぐちゃぐちゃにつぶしているから、形が崩れてないなら、おれが捨てたものじゃない。押尾さんが捨てたんでもないなら、つまり、うんざりしているやつは他にもいるってことだ」と言います。

後日、このお菓子戦争が社内のミーティングで問題になり、皆がお菓子をゴミ箱に捨てているのは押尾であると冷たい視線を送り、そして後日押尾は退社していきます。

「押尾さんが負けて芦川さんが勝った。正しいか正しくないかの勝負に見せかけた、強いか弱いかを比べる戦いだった。当然、弱いほうが勝った。そんなの当たり前だった」

二谷の言葉として書かれていますが、これは誰の気持ちなんでしょうね(笑)。

この後、まだ二谷と押尾が居酒屋で飲むシーンがあります。こういうところがとてもテレビドラマ的です。押尾は友人が立ち上げた会社に転職しますと言い、「わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね。その方が生きやすいから。成長として。誰かと食べるごはんより、ひとりで食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで。力強く生きていくために、みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は、必要でない気がして」と言い残して去っていきます。

苛つきを表に出す術を忘れた現代人

世の中のあらゆることに苛ついているのに、その苛つきを表に表す術を持っていない現代人たちの物語でした。