宮下奈都著『静かな雨』感想・レビュー・書評・ネタバレ

映画を見てその原作を読んでみようと思うことは多々あるのですが、ついつい忘れてしまうことも多く、この『静かな雨』もそのひとつで、図書館で目にし、ああそうだったと借りた本です。

映画は原作とまるで違う…

映画を見たのは2年ちょっと前です。すでに細かいところは忘れていますが、それでもかなり印象に残った映画ですので、原作を読んで驚きました。

まったく違うじゃん! ということです。

設定はほぼ同じなんですが、原作と映画では心に残るものがまるで違います。

こよみは交通事故にあい記憶を失います。その失い方が特殊で、事故にあうまでの記憶は残っていますが、それ以降はその日一日の記憶しか残りません。つまり、こよみにとっては毎朝が事故にあった翌日ということです。

物語の基本はこよみと行助(ゆきすけ)のラブストーリーです。事故にあうまでのふたりは親しくなったという程度ですが、こよみに家族がいるのかどうかもわからず行助だけが病院に通い続けるという日が続きます。そして、三ヶ月後、こよみは目を覚まします。

行助はこよみにうちに来ないかと言い一緒に暮らし始めます。そして、毎日事故にあった次の日が繰り返されます。その日にあったことが次の日にはすべて忘れ去られています。エピソードとして出てくるのが、行助はブロッコリーが嫌いなのに、食事に何回もブロッコリーが出てきます。そのことで行助がつい強く言ってしまうということがあったり、後に台所のあちこちにポストイットで「ゆきさんはブロッコリーがきらい」と貼ってあるのを行助がみつけるということがあります。

で、まったく違うのいうのはその後の結末的なことです。

少しだけ重なる記憶

原作では特に大きな出来事は起きません。そうした日々の暮らしのなかで行助が不安をもちながらもそれを乗り越えていく、あるいは乗り越えていけそうだと思うという終わり方です。

行助と姉との会話のなかで、行助が「人間って何で出来ていると思う」と尋ね、姉が「記憶かな」と答え、それに対して行助が「記憶だけじゃなくて、思いもあると思う」と返す場面があります。そういう終わり方です。

ラストシーンは、こよみが久しぶりに新曲が出たからとレッド・ホット・チリ・ペッパーズのCDを買ってきて聴き、「なんか聴いたことのあるような曲なのよね」と言います。行助は流れてくる曲を聴きながら、こよみさん、この曲、日曜日にも聴いていたよねと思いながら、同時に、そう思ってももう感傷的になることはない、別に悲しいことなんかじゃないとも考えるのです。そして、次のように終わります。

明け方の雨に静かに泣いていたこよみさんを僕は忘れない。目を閉じれば、黄砂に吹かれて歩くこよみさんも見えるようだ。僕の世界にこよみさんがいて、こよみさんの世界には僕が住んでいる。ふたつの世界は少し重なっている。それで、充分だ。

(宮下奈都著『静かな雨』)

共有される記憶

もう一度映画を見ないと確信が持てなくなっていますが、映画では終盤になりこよみのもとに行助の知らない男性が訪ねてきます。行助がこよみに誰?と尋ねますと古い友人とだけ答えます。

具体的にその男性とこよみの関係が語られるわけではありませんが、親しげに話すその姿を見、またこよみが古い友人と答えたことで、行助の中に絶望的ともいえる思いが生まれます。その男性とこよみの間には自分には決して持つことの出来ない共有される記憶があるということです。その記憶がどんなに些細なものであってもです。

映画のレビューには次のように書いています。

行助は、その男とこよみの間には、自分とこよみの間にはない、お互いに消えない記憶があることを直感的に感じたのでしょう。雨に濡れて帰った日、その思いをこよみにぶつけてしまいます。

あらためて考えてみますと、これ、かなりきついですね。どんなに長く一緒にいようと、愛する人と同じ世界に生きている実感が持てないということです。なのに、愛する人には過去同じ世界に生きていた人がいつもいるということです。

こよみにしてもつらいことです。自分が記憶を失っていることは、朝聞かされてわかっているのに何を失っているのかはわからないのです。とっさに家を飛び出してしまいます。

静かな雨 – そんなには褒めないよ。映画評

その後映画は、家を飛び出したこよみを行助が探し回り、やっとみつけた河原で抱きしめるシーンで終わります。

映画ですからある種クライマックス的な盛り上げも必要と考えたのでしょうか。確かにこれまで見ている中川龍太郎さんの映画「四月の永い夢」や「わたしは光をにぎっている」でもきっちりオチをつけようとしています。

ん? でも「静かな雨」の終わり方はオチじゃないですね。むしろふたりがどうなるかわからない終わり方です。

映画の行助は過去を見ていますが、原作の行助は未来を見ています。

映画と原作の悩ましき関係

何にこだわっているかと言いますと、小説なり原作があるものを映画化する場合、原作のテーマや人物像を変えてしまっていいかということです。

典型的なのは、何度も書いていますが、佐藤泰志さんの小説の映画化で脚本家の高田亮氏が目に余る改変をしていることです。具体的には次の記事に書いていますので一度読んでみてください。

https://tokotokotekuteku.com/yoru-toritachiganaku/

関連でいえば、濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」も人物像が大きく改変されています。

原作の設定だけ取ってそこに自分の価値観を持ち込んでテーマや人物像を改変してしまうのはダメです。だた、この「静かな雨」、映画そのものはよかったです。